1989年発行の下関市市勢要覧に、市制100年に寄せて下関市出身の哲学者・山田宗睦(神奈川文学振興会常務理事)さんの、次のような一文があった。
 「私が生まれたのは、“武久(たけひさ)園”と言ったと思う、武久は地名だが、園というのは、そこに建てられた借家群の名だったのではないか。電車が通っていて、停留所を降りると、海岸までほんの少しの家しかなかった。
 父が関釜連絡船の乗組員だったから、急に懐かしくなり、下関市を訪ねたことがある。武久にも行ったが、浜辺近くまで人家が建ち並んでいるのにびっくりした。もう二十年も前のことだから、下関には浦島太郎のような存在になってしまった。
 市制百年だという。その“しものせき”という音が好きだ。どこか人間をやさしく、根元的にくるむ響きがあるこの市が、非核平和都市を宣言する動きに参加したが、自分の生まれた下関市も、また非核平和都市を宣言しているのはうれしい。平和は確実に人間に優しく根元的に支えてくれる。」

明治41年にできた元の市庁舎。左が警察署

 明治21年(1888)4月、法律第1号として市制および町村制が交付され、翌22年4月1日からこれを施行した。この時、下関は日本で最初に市制を施行した全国31の都市の一つとして誕生した。山口県ではただ一つの市でり、この時は赤間関(あかまがせき)市としてスタートしたのであって、初めから下関市と呼ばれていたのではない。
 あれから百数十年たった。明治の前半、20年までを新しい時代の基礎固めの時代とすれば、後半は、その発展期・開花期に当たるといえよう。「明治近代化」向けての大きなうねりの中で、赤間関市は産声を上げたのである。

秋田商会の建物

 「私はふるさとを持つことを、しみじみ幸せに思う。大正十年、東南部町(現・下関市南部町)に現存する秋田商会の建物に生まれ、上田中の幼稚園、さらに明地小学校に通ったが、田中川がよく氾濫したこと、現在の市庁舎は城山という小高い丘で、毎日この坂を上って学校に通ったこと、城山にはフクロウが夜ごと鳴き、夏はセミとりを楽しんだことを覚えている。
 豊浦中学校には唐戸始発の路面電車で、海を眺めながら通い、長府の古い土塀の続く武家屋敷、白い砂浜の小路などがまぶたに浮かんでくる。
 古い歴史と昔からの繁栄を持ち、交通の要衝に恵まれる下関市が、新しい装いでさらに二十一世紀へ飛躍されることを、心から期待している」
 これは秋富公正さん(元総理府総務副長官・元新東京国際空港公団総裁)の一文。
 市制施行以前の日本の情勢は、明治政府に対抗する形で、自由民権運動が盛り上がっていた。一応、“近代的”な政府はできたが、その政府を動かしていたのは、明治維新を中心になって推し進めた長州藩とか薩摩藩の人たち、いわゆる藩閥政治であり、それに対する不満が鬱積していたといえる。不平等の是正、憲法の早期制定、議会の開設など、国民運動は多岐に及んだ。

旧山陽ホテルは明治35年に下関駅前(現・細江町)に開業。全国屈指の規模を誇った。

火災後建て替えられた山陽ホテルの建物は今も旧下関国鉄ビルとして健在。

 明治政府も憲法の制定、議会の開設については、準備をしていたので、自由民権派の強い発言を抑えながら、伊藤博文らが中心となって、ようやく明治22年に、大日本帝国憲法を制定するに至るのである。
 この明治憲法が、第二次世界大戦後、新憲法が作られるまで続くことになる。その内容は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の天皇の大権をうたい、政府に強い権限を与え、議会には権利を大きく制限し、国民の権利の保障も非常に少ないものであった。こうして、第1回の帝国議会が明治23年11月に開かれた。
 こうした激動の時代背景の中で、第1回帝国議会開催の2年前に市町村制が交付され、その翌年に施行されたのである。市町村制は、国民を地方政治に参加させ、下から盛り上がるような地方自治制度の確立を狙いとしたものだったが、実情は、自治権も弱く、国の強い統制のもとにあった。
 まがりなりにも「市制」が制定された。そして赤間関市も他の30市とともに地方自治のスタートを切ったのである。

 

 東京オリンピック レスリング金メダリスト、花原勉さん(日本体育大学名誉教授)は次のように書く。
 「私の人生の中の青春の一ページ、豊浦高時代は、実に充実した『とき』であり、現在の私を構築してくれたように思う。多くのよき先生方に出会ったのもその一つである。漱石の『坊っちゃん』に登場してくる人物のように、先生にニックネームをつけては、仲間たちとひそかに快感を味わったものである。
 三年生の秋の体育祭のこと。閉会のあと、三十人くらいが生意気にも川棚温泉にくり出し、打ち上げをやった。酒も入ったのか、校歌を歌いながら温泉街を練り歩いた。二,三日後、私たちリーダー全員は無期停学となった。しかし、小川五郎校長の寛大な計らいで、授業にも、柔道部の練習にもなんらの支障もなかった。
 漁師たちが幅をきかせて歩いた○は通りや、茶山通り、唐戸魚市場の喧噪は、私の懐かしい青春の心の中にある」

細江湾の賑わい

明治38年、関釜連絡船の定期航路開設

初代市長伊藤房次郎は初代の市議会議長も兼ねた。

 新生赤間関市は人口3万739人(平成24年、28万1,371人)、面積5.36平方キロ(同、716平方キロ)。みもすそ川から伊崎に至る、海岸沿いの細長い地域が市街地だった。
 最初の市議会議員選挙は明治22年4月18日、19日に行われ、納税額によって、一級、二級、三級に分け、各級10人の議員が選ばれた。当時の選挙は、25歳以上の男子で、税金15円以上収めているか、所得税を3年以上続けて納めている人に与えらていたため、有権者も3,500人程度。立候補者も級に属する30歳以上の人に限られていた。
 選挙によって選ばれた30人の議員によって、26日に初の市議会が開かれた。市役所がまだなかったので、議場は西之端町の教法寺を借りた。続く第2回の市議会は28日、観音崎町の永福寺を借りて行われた。ここで、市長候補3人をあげ、その中から、伊藤房次郎を知事の裁可を得、初代市長に決めた。助役に児玉雅尚、中泉彜亮(つねすけ)、職員46人が構成人員だった。7月1日、王司観音町にあった赤間関区役所を使って市役所が開かれ、市政がスタートしたのである。
 町数は23町と1村、市制がしかれたときの町名は次の通りである。
壇之浦町、阿弥陀寺町、外浜町、中之町、赤間町、稲荷町、裏町、奥小路町、田中町、西之端町、東南部町、西南部町、観音崎町、岬之町、入江町、西畑江町、豊前田町、竹崎町、茶山町、長崎町、今浦町、新地町、伊崎町、関後地村(現在の本町、園田、貴船、上田中、丸山、長崎、上新地)

 

駐日英国大使アーネスト・サトーが本国に進言して領事館を開設したのは明治39年(現・下関市考古館)

日清講和条約「下関条約」談判の春帆楼

 「私の仕事場の窓から、世田谷(東京)の町中では珍しい小さな森が見える。ふんわりと暖かい午後など、ぼんやりとベランダにしゃがんで、長府のことを思い出している。
 父と母が眠っている功山寺の、墓地のあたりの深いうっそうとした大きな森や、幼いころ通学路であった忌宮神社の厳かで、神々しい大きな森は、長府で生まれ育った私にとって、かけがえのない大切な場所となっている。ふるさとは、とんな時でも私をやさしく包んでくれ、そして活力を与えてくれる」
 これは、漫画家の青地保子さんの文である。
 赤間関市が、下関市に名前を変えたのは、市制施行後13年がたった明治35年6月のことである。市制が施行される以前から、この地方の呼び名はいくつかあった。「赤間関」「下関」「馬関」「関」などだが、いずれも“関”という字が付いており、この地方が海陸交通の拠点であったことを物語っている。市名・赤間関市の由来は、明治維新になってから、山口県の出先として、赤間関支庁が置かれたことが、そのまま市名に結びついたと言われている。
 市名改称のいきさつは、
 ●下関の方が言いやすいし新しさがある。
 ●幕末攘夷戦の時、オランダを含めた四国連合艦隊軍との戦争の記録にも下関戦争とあり、また明治28年の春帆楼における日新講和条約にも下関条約とあり、国際的にも歴史的にもよく知られていた。
 ●市民も書き物をつくる際に、早く統一した市名を求めていた。
 などから、比較的簡単に全国的にも希な市名改称が行われたのである。
 明治の新しい日本は、封建制度をなくし、国民の自由な権利―四民平等に努めてきたが、すぐに新しい制度になじむのは難しく、紆余曲折しながら近代化の政策を推進した。そうした中で、市制がしかれた明治の中ごろから人心にも落ち着きが見られはじめ、文明進取の気持ちが高まり、今日の繁栄の礎を築いて築いていったと言えよう。

 

 俳優の細川俊之さんは、「小さいころ、私にとって下関はあこがれの都市であった。そのころ住んでいた豊田町には華山(げさん)という美しい山があり、町の人々はこの山を心から愛していた。何年か後に、念願かなって下関に移り住んだ。下関はテンポやスピードが速く、活気に満ちていた。何よりも海に面していることが、世界に通じるロマンを感じさせた。
 さて、新幹線が走り、橋が出来あがった下関へ久しぶりに帰った時の印象は『何だか通り過ぎるだけ』いう感じだった。ミュージカルのツアーによく出かけるが、広島の次は下関を通り過ぎて九州に入る。『下関は文化はいらないのかなー』ちょっと寂しい気がした。通り過ぎるまちから滞在するまちに変わらせるのは文化を持つことだ。市制百周年を迎えた、大好きな下関市の発展を迎えつつ」と。

国際コンベンション施設・商業ビルと高さ153メートルの展望タワー「海峡ゆめタワー」で構成されている。「海峡ゆめタワー」では、展望台(高さ143メートル、西日本第1位)から関門海峡はもちろん、対岸の九州や日本海側が一望できる。

下関港は特定重要港湾に指定されている物流の拠点。

 平成元年4月1日、下関市は市制100年を迎えた。まちづくりに貢献した先人の遺業に感謝し、下関市の発展を祝うとともに次の百年への飛躍を誓って記念式典を挙行した。そして、「海へ、世界へ、未来へ」をテーマに記念事業が進められた。また、記念イベント、協賛イベント、記念出版、記念施設などの各事業も順調に行われた。
 下関市では、この平成元年を「活性化元年」位置づけ、21世紀を展望した新しいまちづくり構想―国際化とコミュニティを基調にした第三次総合計画を打ち出した。そこでは、産業経済の活性化、教育文化の振興、福祉の充実と市民の健康保持が大きくうたわれた。さらに「夢の広がる人工島構想」「マリンテクノひびき灘構想」「新都市拠点整備事業・都市のオアシスゾーン」「下関港東港区開発事業・海峡とふれあうまちづくり構想」などを推し進めた。
 それから20数年の歳月が流れ、いままた下関市は大きく変貌したかのように見える。果たしてその理想は達成されたのであろうか。

(参考文献「下関の歴史」下関市教育委員会発行・1989年版 下関市市勢要覧)

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