昭和62年秋。山口県防府市牟礼、大平山麓にある奈良東大寺別院阿弥陀寺。欝蒼たる自然林の中、苔むした参道を登りつめ、中門をくぐると急に明るく視界がひらける。本堂の前、広い境内の片隅で、年輩の女性が落葉を掻いていた。聞けばこの人は前住職浄徳行寛大和尚(昭和43年入寂)未亡人澤代さんだった。
 阿弥陀寺は文治3年(1187)、東大寺再興の大勧進俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が、後白河法皇の現世安穏を祈って、自ら鍬をとって荒野を拓き、別所寺としてこの地に創建したものである。

 「まことに恐縮ですが、このお寺に安置されている重源上人の座像を拝見させていただきたいのですが」とお願いすると、澤代さんは快く承諾して、私たちを収蔵庫の中に案内してくれた。
 重源上人の座像は、ほの暗い厨子の中で、800年前の姿そのままに、蓮華の台座の上に端座していた。この人こそ、十二世紀末、東大寺再建という偉業をなしとげた大勧進聖(だいかんじんひじり)である。
 「俊乗上人さまは左眼を患っておられたと聞いていますが、像もそのとおりに彫られています」と澤代さん。そういえば、大きく見開いた右眼にくらべ、左眼の開きは細く、心なしか白目の部分が多い。61歳で東大寺再建の大勧進に任ぜられ、86歳で没するまでの25年間、不惜身命、東大寺再建に骨身をくだいた重源だけに、その老境には眼を患ったことも十分に考えられることだし、仏師もまた重源の眼疾を見逃さなかった。写実主義は鎌倉美術の特色である。ちなみに、同像は桧材一木彫で像高88.78センチ、重源が厚く信頼していた仏師快慶の作と推定される。存命中の像、つまり寿像としては日本最古のものといわれ、国の重要文化財に指定されている。

東大寺炎上

 治承4年(1180)も暮れようとする12月28日昼すぎ、京都からはるか南の方にかけておびただしい煙の上るのが望見された。南都の反平氏勢力制圧のため乱入した平重衡の軍勢が放った兵火である。火は夜になっても燃えつづけた。平家の軍を恐れて、消火にまわる者もなく、火はつのるにまかせ、紅蓮の炎は南都の空を赤く染め、燃え移るものがなくなって、はじめて消えた。


奈良東大寺別院阿弥陀寺仁王門
(防府市牟礼)


重源上人座像(重要文化財)

 この劫火で炎上した東大寺は、大仏殿をはじめ講堂、食堂、四面廻廊、三面僧房、戒壇院などがことごとく焼失、大仏は頭が焼け落ち、胴体は無残に焼けただれた。天平勝宝3年(751)、聖武天皇が国力をあげて大仏殿を完成、翌年4月9日、華々しく大仏開眼の式を挙げて以来、428年目のできごとだった。
 ときの右大臣九条兼実は、その日記「玉葉」に「――大仏の再造立は何の世、何の時ぞや」と東大寺の焼失を嘆いたが、当時の政治情勢からみて、東大寺の再建は、国の威信をとりもどすための至上命令であり、焦眉の急であった。
 東大寺焼失の翌年、養和元年(1181)6月、朝廷は東大寺造寺長官藤原行隆以下を任命、同年8月には、再建事業を具体的に推進する責任者としての「大勧進」に俊粟房重源を任命した。重源ときに61歳、高齢にもかかわらず、みずからあえて先頭に立ち、一輪車6台をつくり、それに詔書と彼自身の書いた文章をはりつけて全国を巡回させ、全国的な協力運動を展開した。
 俊乗房重源は紀季重(きのすえしげ)の子として保安2年(1121)京都に生まれた。俗名刑部左衛門尉重定、13歳で醍醐寺に入って出家、名を重源と改めた。青年時代から大峰山、熊野、御嶽、葛城、白山などの山々で行をつんだ。また、当時民衆の間にひろまっていた浄土教に深く帰依し、自らを南無阿弥陀仏と称して布教活動もすすめていた。
 仁安2年(1167)宗(中国)に渡り、翌年帰郷しているが、「南無阿弥陀仏作善集」には、重源が造寺、造仏、写経、鋳鐘など、仏教関係の業績だけでなく、灌漑用池堤の築造や道路・橋梁の修理、架設など、社会事業も多く手がけていることが書かれている。つまり重源は、大寺院に住む学問僧ではなく、奈良時代の行基菩薩と同じように、山河を跋渉して山里に仏法を説き、結緑勧進のために乞食しながら遊行回国する、いわゆる民衆済度の聖だったのである。そして、重源が大勧進に任ぜられたのは、重源自身が造寺事業を完遂するに足る実カ―勧進力・労働編成力・技術知識―を備え、しかも彼が駆使できる技術者集団を抱え、ことに宋人を多く知っていたことなどがその背景にあった。いうなれば重源こそ、東大寺再建のためには希有の人物だったのである。