松陰・一誠と萩の乱

前原一誠旧宅
      前原一誠旧宅(萩市土原)

 前原一誠旧宅(萩市土原)の門前に立った。門は改築されており、木の新しさが、その門に連なる土塀の往時を思わせる佇まいとひどく対照的で、明治と平成とを結ぶ歴史の結節点であるかのように思えた。邸内には前原彦八さん(故人)が住んでおられた。一誠のお孫さんにあたる。
広い庭狭しと、萩名産の夏ダイダイが植えられていた。夏ダイダイは、明治維新後、職を失った藩士たちの殖産事業一つとして奨励され、この地に定着したものとされる。彦八さんは、収穫した夏ダイダイの一つを、慈しむように手に取りながら、訥々と話を進められた。
「この門は三代目です。一誠が住んでいた当時は日暮らしの門といって、今の三倍ぐらいあったと聞いています。萩の乱後、前原家を支えた一誠の妻綾子(彦八さんの祖母)が、世間をおもんばかって、小さな門に建て替えたといいます。夏ダイダイ
庭の木を切り払って、夏ダイダイを植えたのも綾子です。乱後、厳しい前原家の家庭経済のことを考えた上でのことだったと思うのですが、門の縮小にしても、夏ダイダイの植樹にしても、質素にひっそりと暮らすことで、一誠と行を共にした人々への、せめてもの償いという気持ちが、綾子の心の奥深くにあったのではないでしょうか。
萩の乱についての、前原一誠の評価は様々ですが、私の結論は、その時、吉田松陰先生が生きておられたら、ともに決起されたに違いない、ということです。
この話もあの話も、祖母綾子から聞かされたことなのですが、祖母の話を信じることが、一誠やその仲間の人々、そして祖母の供養に通じることだと思っています。」

        前原一誠

 前原一誠 天保5年(1834)3月20日、長門国土原村馬場丁(現山口県萩市)に長州藩士佐世彦七・すえの長男として生まれる。本姓は佐世氏で、はじめ八十郎(やそろう)と称し、のちに彦太郎といった。明治以後、一誠を通称した。
佐世氏は近江尼子氏の一族で、一門の米原左衛門尉広綱は武名が高く、尼子十勇士の一人であった。尼子氏が滅びて毛利元就に属し、軍功があった。前原の称は、一誠が慶応元年(1865)米原の発音に近づけて一字を改めたものである。
八十郎が吉田松陰の門をたたいたのは、安政4年(1857)旧暦10月末、24歳のときであった。大部分が二十歳前後の塾生に比べると年長であった。父彦七が御輿奉行となり、厚狭郡目出村(元山陽小野田市)から萩に出たので、彼も従ったのである。このとき、松陰から講受されたのは『日本政記』で、わずか十日間出会った。その後、家の都合で再び目出村に帰ることになるが、松陰との出会いによる、八十郎の感銘は大きかった。
「父に呼ばれて『お前は萩に出て、吉田先生に学ぶがよい』といわれたとき、平素より先生に師事したいと願いっていた私は、数年来の宿意が果たされ、雲霧晴れて白日を望んだ気持ちだ。私は性愚かで、学問は未熟である。先生の一言一句を聞き漏らさず、忠義の心あつくして自信を持って自ら任じなければならない」と、興奮して日記にしたためている。

松下村塾
          松下村塾

安政5年5月、八十郎一家は萩に移り住むことになる。松陰が投獄の命を受けたのは12月5日のことであった。八十郎は同友7名とともに、藩の重役周布政之助の宅に行き、師を投獄する不当を責めたが、逆に藩命により1カ月間、閉居させられた。26日、松陰は今古萩の野山獄に赴いた。
安政6年2月、八十郎は藩命で西洋学研究のため、長崎に西下することになるが、出発まで師に面会する機会を得ず、のちに松陰はこの事情を聞き、詩文を贈って八十郎を慰めている。江戸送りになった松陰は伝馬牢で処刑された。ときに安政6年10月26日、一誠に、遂に対面の機会は訪れなかった。