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 近世初頭、中国八カ国を領有していた毛利氏が、関ヶ原の戦いで西軍に与した責により、周防・長門二国に削封されたのは慶長5年(1600)10月である。同8年9月、毛利輝元は徳川家康から築城の許可を得て山口に帰着、同年12月、防府の桑山(くわのやま)、山口の鴻峯(こうのみね)、萩の指月山(しづきやま)を候補地に選び、福原広俊がこの3ヶ所の絵図を持って江戸に上り、老中本多正信・正純父子と折衝した。広俊は「指月は引きこみ過ぎたる所」として、桑山か、せめて鴻峯をと希望したが、老中答えは冷たかった。「当時の後分際にては成らざる山に候、ただ指月然るべき所に候」、かくして毛利氏の城地は萩と決定、同13年萩城は完成した。