文禄・慶長の役は、16世紀末期、日本によって起こされた明・朝鮮との戦争で、文禄元年(1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵に始まり、慶長3年(1598)の撤兵で終わる。朝鮮ではこれを「壬辰・丁酉の倭乱」という。当時、朝鮮は李朝(1392―1910)の時代で、政治、経済、文化は大きな躍進をみせていたが、その基盤となる思想は儒教であった。儒教では美術・工芸全般が軽視され、国王には大諌(だいかん)という役目の儒者が控えていて「国王が美術・工芸を愛好するようなことがあれば国を危くする」と諫言した。したがって陶工の地位は極めて低かった。

 いまは濠と城壁の一部、石垣などを残すのみの萩城跡、その遥か東方に緑の連山が襞を合わせる。その中に、人呼んで唐人山(とうじんやま)という一峰がある。
心なしか、ひときわ緑濃く、高い。もともとの名を鼓ケ獄というこの山が、唐人山と呼ばれるようになったのは遠く慶長(1596―1615)の昔、萩焼の開祖といわれる李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)兄弟が、萩城下の東郊松本村中之倉(現・萩市椿東)に開窯のさい、この山を薪山として藩から下賜されてからのことである。
李勺光、李敬ともに、文禄・慶長の役(1592―1598)に、日本に招致された李朝の陶工で、とくに兄の李勺光は、高麗焼物細工累代家伝の秘法を身につけていたという。その点、萩焼もまた、文禄・慶長の役で西国大名が連れ帰った李朝の陶工たちによって始められた細川氏の上野焼(あがのやき)、黒田氏の高取焼、島津氏の薩摩焼などと軌を一にするものである。

 貧しい陶工たちは、丸太を削っただけのような蹴ロクロを肩に、窯場を求めて南へ北へと流浪の生活をおくっていた。たまさかに、仕事にありついて、雑器を焼いた陶工たちの胸に去来したものはいったい何であったか。高麗のやきものには言いしれぬ憂いとさびしさがある。


 ともあれ文禄元年の朝鮮出兵に際し、毛利輝元はその総帥として渡海、釜山から開寧に進駐した。開寧のちかくには李朝有数の窯業地「鶏竜山(けいりゅうざん)」があった。秀吉軍は小西行長、加藤清正を先鋒に、朝鮮半島に進出、3ヶ月後にはその北端に迫るほどの勢いであった。
後日、この戦争が「やきもの戦争」と呼ばれたように、出陣した各藩の諸将は、戦陣の中で高麗茶碗を漁り、多数の李朝陶工を連れ帰ったが、その背景には、利休によって確立された侘び茶が戦国武将の間に流行、彼等には井戸茶碗を頂点とする高麗茶碗へのあこがれと欲求があったのである。
秀吉は出陣した諸大名に対して、技芸のある陶工たちの招致を指令している。李勺光もこの指令によって招致され、秀吉の命により大阪に連れて来られ、輝元に預けられた。輝元は、秀吉の信任厚い武将で、当時中国8ヵ国を領有した大名。また千利休の弟子として、交遊の深い大茶人でもあり、李勺光の陶技に期待して、秀吉からその身柄をもらいうけたものであろう。輝元は李勺光を本国の安芸広島に送ったあと、弟の李敬夫婦も朝鮮から呼び寄せている。
 やがて慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で西軍について敗れた輝元は、徳川家康と和したが、領地は周防・長門の2州に削減され、安芸の広島から長州の萩に移封され、慶長9年萩に築城した。李兄弟もこれに随行、命により萩城下の松本村小之倉に、松本窯薪山御用焼物所(松本窯)を開窯、ここからはじめて萩焼の煙がのぼり、藩窯として栄えてゆくのである。

毛利一族には茶をたしなむ武将が多かった。天正16年(1588)、輝元は毛利の両川(りょうせん)といわれる小早川隆景、吉川広家を伴って上洛、千利休をはじめ今井宗久、津田宗及ら、当代一流の茶匠と交友を深めている。また輝元の養子だった秀元は古田織部など茶人との親交も厚い武将で、文禄・慶長の役では茶碗を焼かせて日本に持ち帰っており、寛永17年(1640)には将軍家光以下幕閣諸大名を品川御殿に招待、大茶会を催したほどの茶人であった。御用窯としての萩焼が、茶陶を指向するようになった背景には、このような萩藩の茶道的土壌があったのである。


(写真上)初代高麗左右衛門作、木引茶碗。乱れ高台、全面の指跡が景色となる。
(写真中)坂窯の裏山にある古窯跡から発掘された陶片
(写真下)寛永2年(1625)、坂助八(李敬)を高麗左右衛門に任じた毛利家の辞令