岩国散策表題 錦帯橋(きんたいきょう)のそばの土産物屋で、小さな可愛い石人形を売っていた。おそらくは川石であろう、すべすべした丸っこい、平たい小石の上に、高さ1.5センチほどの黒っぽい人形が一体、ちょこんと立っそいる。200円の値札がついていた。この、奇妙な感じの郷土玩具を、ためつすがめつ見ていると席の主人が石人形にまつわる悲しい伝説を話してくれた。大要はこうである。
「清流錦川は、周防随一の大川だが、大雨には水位が増して激流となり、どんな橋でも流されてしまう。殿様が工大を凝らし、苦労して架けた弧形の橋も一年足らずで流失した。そこで、町の人々が相談して、橋の台に人柱を立てることにした。そこへ、一人の貧しい武士が現われて、自ら人柱になろうと名乗りを上げた。が、その武士には二人の美しい娘がいた。父を失うことを悲しんだ二人は約束の日、白装束で現われ、父の身代りになって、橋の台深く身を沈めた。その瞬間、川の流れは止まり、鮎の群れは泳ぎを止めたという。そして、人柱に立った美しい姉妹二人の姿は、石人形となって、三百年ちかくも橋を守りつづけたという」。しかし、実際には、石人形とは錦帯橋下の清流に棲むニンギョウトビケラという昆虫の巣で、歌の形が人形(ひとがた)に似ているのでこの名がある。錦帯橋
それにしても、錦帯橋の完成は延宝2年(1674)で、現在まで300年あまり、石人形の伝説を神秘化するには短かすぎる歳月である。しかし、それまで大雨ごとに流失していた橋が、延宝2年にできた橋にかぎって大水にも流されず、300年もの風雪に耐えた、その “不思議”を、当時の人々は石人形の功徳のゆえとしたのかもしれない。

錦帯橋

 渇水期、錦帯橋の下をくぐったら、橋の上を歩く人の足音が、コトコトと橋の裏に響いてきた。裏から足音の聞こえる橋―、童話の世界にでも出てきそうな楽しい、そして木肌のあたたかい橋、それが錦帯橋である。むかし、岩国藩三代藩主の吉川広嘉(きっかわひろよし)公が、吉川広嘉公像カキモチを焼いていたとき、カキモチが弓形にふくれ上がるのを、火箸でおさえてもおさえても、またもとどおりにふくれ上がるのを見ているうちに、ふと、五連の反り橋の発想がわいたという。これもまた多分に童話めいた伝えが残っている。
その“伝え”はともかく、岩国を象徴する錦帯橋は広嘉の創建といわれる。岩国市を貫流する錦川は、遠く中国山地の莇ヶ岳(あざみがだけ)に源を発する山口県最大の河川で、延長約110キロ、その豊かな清流は城下町岩国を育くんできたが、半面、豪雨時には激流となって両岸の架橋を拒みつづけてきた。両岸に“流れぬ橋”を渡すことは岩国藩はじめ領民の悲願であった。

 そして、この架橋に真剣に取り組んだのが広嘉である。広嘉は元来病弱、養生のため京都で暮らしたこともあり、京文化にも触れ、高僧、学者、公卿など知名の人と交わり大いに見聞を広めたが、“流れない橋”の構築に思いをよせて、参考のため奇橋として評判の高かった甲斐(山梨県)の猿橋に立寄ったといわれる。この広嘉に“流れない橋”架橋のヒントを与えてくれたのが、中国からの帰化僧独立(どくりゅう)禅師と中国の古書「西湖志」であった。
(写真右)吉川広嘉公像


 独立禅師は当時、広嘉の治療にあたっていたもので、ある日この書を広嘉に見せた。その中には島から島へ順次渡されている石橋の風景画があった。この島を橋台にして島から島へ反り橋を架せば橋は急流をまたぐ形になり、しかも橋の上を人が通ったりして圧力がかかると、反溌力によって橋はかえって引き締まる―。「西湖志」の絵は、広嘉が長い間考え続けていた“流れない橋”架橋実現の鍵を与えてくれたのである。
広嘉は家臣児玉九郎右衛門に命じて、架橋の任に当たらせ、延宝元年(1673)6月28日、土台鍬(くわ)入れの式を行い、3ヶ月後の10月11日竣工したが、これは翌年の大洪水で流失した。
広嘉は直ちに再建にとりかかり、こんどは工期5ヶ月をかけて入念に仕上げた。錦川に4基の石造橋台を置き、その上に五連の反り橋を連らねて架すという当時最新の架橋術を用いたものである。用材はヒノキ、長さは橋面に沿って210メートル、直線にして193.3メートル、幅5メートル、橋台の高さ6メートル、アーチ型の最高部から川面までの高さ約12メートル。

 独特のアーチ型をした橋、これが、延宝2年から昭和25年9月のキジア台風まで約3世紀の風雪に耐えた錦帯橋である。
しかし、この橋は初めから錦帯橋と名付けられたのではなく、通称、大橋、反橋(そりばし)などといわれていた。創建から33年目に当たる宝永3年(1708)に、宇都宮遯庵(とくあん)が書いた「極楽寺亭子記(ごくらくじていしき)」の中に「又錦帯橋と曰う。錦見の里に近きを以てなり」と見えているので、このころには錦帯橋の名が生れていたことが知られるが、一方、形や景観的な雅称として凌雲橋、五竜橋、帯雲橋、竜雲橋などと呼ばれることもあった。それがいつしか、誰言うことなく「錦帯橋」と呼びならわされるようになったのである。
大正11年、国の名勝に指定され、現在の橋は昭和28年1月、1億2,000万円の巨費を投じて再建されたものである。