大内文化タイトル 山口市中尾、東鳳翩山(ひがしほうべんざん)のふもとから南へ延びる舌状の高台がある。ここが、大内氏建築の中世寺院凌雲寺(りょううんじ)跡、大内氏三十代義典(1477─1528)の眠る菩提寺である。
いまは田園となっている高台を東西に長い石垣が影を落とす。総門の遺構と伝えられているこの石垣は、築造以来五百幾星霜、風に揺れ、雨にゆるみ、結氷に割れてか、ところどころが崩れ落ちている。石垣は長さ60数メートル、高さは約3メートル、幅約1.5メートルあまり。方1メートル前後の巨石で築きあげており、総門入口とおぼしきところに国指定史跡の標柱が建っている。凌雲寺跡に残る石垣


中尾地区の農家の人たちは数百年来、この史跡のそばで稲を刈り、麦を踏みながら生活してきた。遺構は、いうなれば数世紀を住民とともに生きつづけてきた大内文化の遺産なのである。
大内文化の遺産─そのあるものは形となって山口市内いたるところに姿を残し、あるものは形のないまま伝統となって、ともに山口文化の中に脈打ちつづけている。そもそもこの、大内文化とは何なのだろうか、山口市内に残る大内文化のかずかずにライトをあててみた。

(写真上)山口市中尾の中世寺院凌雲寺跡に残る石垣、総門の遺構という。


大内文化の開花大内義隆像

 大内氏は百済王聖明(せいめい)の第三子琳聖(りんしょう)が、611年、周防国多々良(防府市)に着き、吉敷郡大内(山口市)に土着したのに始まるという。この琳聖太子の子孫が防長史上に登場するのは、十六代盛房のときからである。盛房は初めて大内を氏とし、周防権介(すおうごんのすけ)に任ぜられ、大内氏は代々これを世襲したが、二十四代弘世(ひろよ)のとき、正平15年(1360)ごろ本拠を大内村から山口に移した。以後三十一代義隆までここが大内氏の衙門となった。
 弘世は、京都に模して山口の都市計画をすすめ、京文化の移植につとめたといい、室町中期には二十八代教弘が、館の北側に豪壮華麗な築山館を営造した。大内氏は代々学芸に熱心で、中国・朝鮮との貿易を積極的に行い、これで得た富をもとに大陸文化の輸入、宗教、文化、都市計画に力を入れた。そのため町は殷賑を極め、多くの文人、禅僧、貴族らが来訪、山口は京都をしのいで「西の都」といわれるにいたった。ここにけんらんたる大内文化が花開くのである。
(写真は大内義隆像)


大内文化の特色

 大内文化は、京文化と大陸伝来の文化、これに防長の郷土文化の三つがみごとに調和、開花したもので、その特色として文武一如、京文化への志向、大陸文化の吸収の三点が挙げられよう。
文武一如は大内文化の源流であり、大内氏の場合、学問・政治と軍事は常に一如のものと考えられていた。弘世の山口開府以後、義隆まで八代の武将は、ほとんどが兵火の中に生きてきたが、例えば、応永6年12月泉州堺で討ち死にした二十五代義弘は、「新後拾遺和歌集(しんごじゅいわかしゅう)」の作者に列するほどの歌境に達していた。また、二十九代政弘の発句10、付句65が「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」に採録されていることなどはその片鱗である。

 次に大内文化における京文化への志向は、弘世の山口関府のときからすでに始まっていた。弘世は、京都に模して都市計画を行い、京都から祇園神社や北野天神を勧請、道路にも大路・小路という京風の名称をとり入れた。ちなみに大内館のあったところ、つまりいまの竜福寺の門前の町名は大殿大路である。京風への憧れのあまり、一町ごとに京童6人をまねいて、田舎言葉を矯めさせようとしたという極端な話まで伝わっている。また、大内一統と京都公家との婚姻も目立った。これらは、大内氏の百済王子を祖に持つという誇りが公卿化への道をあゆませ、つまりは京文化への顕わな志向となってあらわれたのではないかという見方もある。竜福時
 第三の特色、大陸文化の輸入は、朝鮮・明との交易によってもたらされた。典籍をはじめ数多くの文物を輸入するとともに、かの国の使節団を山口にむかえて異国文化を享受、山口は大陸文化移入の先進地となった。義隆の時代には来住の明人二千といわれ、その居留地には唐人小路の名がつき、市中には舶来品を京都や諸国に商うことを専業とした商人もあらわれ、山口には国際都市の雰囲気があふれた。

(写真)山口市大殿大路の竜福寺。大内氏ゆかりの古刹だが、天文12年焼失。毛利隆元は大内館に竜福寺を再興し、義隆の菩提寺とした。


雪舟と山口常栄寺の雪舟庭

 山口が西の京都といわれた大内時代、ここを訪れた京都の公家や禅僧、文人らの数は多いが、中でも大内文化に大きな足跡を残した人に画僧雪舟(1420─1505)と連歌師宋祗(1421─1502)がいる。
 雪舟は備中の人、早くから京都の相国寺に入って禅を修業し、画を僧周文に学んだ。寛正年間、大内氏を頼って山口へ、応仁元年政弘のはからいで道明船(大内船団)に乗り渡明、本格的な水墨画技法を学んだ。文明元年(1469)帰国、各地を転々としたあと、再び山口に帰ってきたが、政弘は雲谷庵(うんこくあん)に新しい画室を建て厚遇した。これが天開図画楼、雪舟は永正3年、87歳でその生涯を閉じるまでここに常住した。連歌師宋祗の句碑
 山口は雪舟にとって第二の故郷というべきで、その三大傑作といわれる山水長巻、破墨山水、天橋立図をはじめ、代表作の多くは山口で描かれている。山口市宮野、常栄寺の雪舟庭は、政弘が母妙喜尼の菩提所の庭として、雪舟に築かせたものと伝えられ、池泉回避式、中央に心字池(しんじいけ)をつくり、四仙島を浮かべる。国指定の史跡および名勝である。
 宋祗は文明12年と延徳元年の二度、政弘の招きで来山している。いま、上堅小路(かみたてこうじ)築山神社境内にある宋祗の句碑「池はうみ こずゑは夏の み山かな」は、文明12年来山したとき、築山館の優美さをよんだもの。また、政弘は宋祗に連歌集の編集をすすめ、新撰菟玖波集成立の機縁をつくった。
(写真上)大内政弘が母妙喜尼の菩提所の庭として雪舟に命じて築かせたという常栄寺の雪舟庭
(写真下)室町末期の連歌師宋祗の句碑。宋祗は政弘に招かれて2度山口に。築山館の美観に「池はうみ こずゑは夏の み山かな」の発句を残した。