仙崎に突風が吹いた日

 本稿を取材するため、山口県長門市を訪ねた。その日、この町は突風としのつく雨にさらされていた。仙崎港から青海島に通じる海岸沿いの道路は、折からの満潮と重なって、牙をむくように襲いかかる白波に洗われ、人も車もしばしば立往生する有様であった。
 大内氏31代 義隆よしたかは、譜代武将 陶隆房すえたかふさの謀反にあい、燃える山口を背に、長門国の仙崎(長門市)へ落ちた。再起を図るため、石見(島根県)の義兄吉見正頼(一説には九州の大友氏)を頼って、瀬戸崎浦から舟を漕ぎ出すが、にわかに風波が起こって進むことができず、意を決して「 空敷むなしく海に沈みつつ、底のもくずとならんより、 大寧寺たいねいじ に立ち帰り自害せん」と、舟を瀬戸崎浦にもどしたという。

大内義隆主従の墓

大内義隆主従の墓(大寧寺)

 深川湯本にある大寧寺は雨に煙っていた。その奥まった山すその一角に、義隆の墓を囲むように、主従の墓がひっそりと立ち並び、大内氏一族の栄華のあとを苔むした墓石に刻んでいた。
 長門市は人口3万8,694人(平成22年1月現在)。萩市に次いで、山口県の山陰側を代表する街である。遺跡の出土品によると、古代から漁業と農耕が発達していたと推測される。下関と共に大きな魚市場のある漁港として知られている。近世、萩藩の時代には、長州捕鯨の基地としても活躍した。
 

西円寺

西円寺(青海島)

 市の北側には、「海上アルプス」と呼ばれ、北長門海岸国定公園の中心地、日本海の絶景を誇る青海島おうみじまがある。代々の藩主が湯治に訪れた俵山・湯本の2つの温泉、萩藩の御用窯として発展した萩焼 深川ふかわ 窯など見るべき所は多い。
 いま、観光地としても脚光を浴びている長門市。年間、ここを訪れる観光客は100万人を超える。太寧寺境内にある大内義隆主従の墓、兜掛けの岩、姿見の池。義隆の念持仏千手観音のある浄土宗の古刹西円寺(青海島)、義隆の長子義尊の墓(俵山)など、大内氏の影を色濃く落としている。

大内氏の華麗なる系譜

 大内氏の始祖は、朝鮮百済くだら聖明せいめい王の第3子琳聖りんしょう太子で、推古天皇の19年(611)に来日し、多々良浜(防府市)に着岸したといわれる。後に聖徳太子から大内あがた(山口市)を与えられ、多々良たたら姓を賜ってから再びこの地に帰り土着した。これは、あくまでも古伝であって史証はない。
 大内氏が朝鮮貴族の血脈を強調する理由は「武家の権威を支えようとする狙いからである。日本の武家が必ずといってよいほど、自家の系図の発端に、源平両氏をいただいたのは、清和天皇、桓武天皇を祖として、貴族の系譜につながろうとする作為によるものだ。武家から政権を奪われた貴族たちは、せめて血筋への誇りと教養の高さで、武人を内心見くだしている風潮があった。そんな公卿たちや、足利幕府を中心とする「疑似貴族」を遠くに意識しながら、まったく特異な外国の貴族を持ち出したのである」と『大内氏の興亡』の著者古川薫は指摘している。
 大内氏が史実の表舞台に登場するのは16代盛房もりふさからである。その契機となるのは源平の交代(文治元年・1185)であった。盛房は源氏を支持して武家興隆の時流に乗り移った。源平両氏の争いは、台頭してきた地方豪族としての新興武士(源氏)と古代国家を支える貴族権力(平氏)との戦いを集約したものといえよう。この一族が大内姓をとなえたのは、盛房の時からである。
 24代弘世ひろよは、大内中興の祖と呼ばれる。盛房から百数十年間、大内氏にとっては飛躍への準備期間であった。この弘世によって、防長両国は完全に大内氏の治下に帰すことになる。源氏から北条氏へわたった武家政治はさらに足利氏へ―。そして延元元年(建武3年・1336)、足利尊氏による室町幕府の開創となり、政治の中心は京都へ移っていく。
 弘世は、強大な経済力を注ぎこんで、西国の一角山口に京都そっくりの町を建設しようとした。一般に、小京都という場合、2つの解釈がある。単に京都に似た静かなたたずまいを見せる町の場合と、地方の権力者が京都という首都を意識しながら、意図的に都市計画を進める場合である。山口はまさしく後者であった。
 弘世以後7代、およそ200年間にわたって、代々の大内当主たちは弘世の事業を受け継ぎ、大内氏の拠点としての小京都づくりに努力した。山口は、辺境の豪族である大内氏にとって、かけがえのない精神的な支柱だつたのである。
 山口盆地に小京都を作ろうとした弘世の着想は、大内氏の中央権力によせる野望の基地としてであったが、箱庭のように育てあげた小京都に身をひたしながらの、あくなき貴族文化への憧れは、遂には、31代義隆によって、大内氏滅亡への挽歌を奏でることになるのである。

大寧寺興隆と大内氏一族

 大寧寺は、応永17年(1410)、鷲頭わしづ(大内)弘忠が石屋真梁に帰依して開創したと伝える。弘忠は、大内氏17代弘盛の弟である盛保を始祖とした大内支族の雄であつた。 

大寧寺

大寧寺

防長2州に初めて曹洞宗が流布されたのは、25代義弘が帰依したことからで、以後、不動の基盤を築くことになる。本寺は大本山総持寺の直末で、出世の道場として 常恒会地 じょうごえち という曹洞宗最高の寺格を持つ。幕藩時代には、中国・四国・九州一円の寺院行政を管轄する僧録を司った名刹として知られている。
 過去2回にわたり兵火、野火の災厄にあうが、兵火による炎上は義隆自刃によるものである。

滅亡への軌跡―文武葛藤

 30代義興は、永正5年(1508)、実質的に室町幕府を牛耳る管領代の座についた。以来約10年間、京都にあった。当時、既に幕府の威光は失われかけていたが、大内氏は義興によって権力の頂上を極めたのである。武勇を誇り、文にも優れるという武将の理想像も完成された。
 しかし、時代は戦国時代に突入しようとしており、風化した守護大名大内氏にかわって、戦国大名毛利氏の台領へと動くのである。

大内義隆像

大内義隆像

 享禄元年(1528)、義興は山口に病死し、長男義隆が家督をついだ。時に22歳であつた。義隆の初世は戦国武将として、事を外に構え、領国内の一致を目指し、それはある程度成功した。しかし、天文11年(1542)、出雲遠征の途にのぼった義隆は、翌天文12年5月、尼子勢の反撃にあって総崩れとなり、敗走することになる。この戦いで、義隆は最愛の世子晴持はるもちを失った。
 義隆の挫折感は大きく、以後戦いをきらい、もっぱら山口での文化人的な殿上人の生活にひたることになる。文に偏した義隆は武を忘れ、それが譜代武将の不評をかい、やがて陶興房の子・隆房と側近の相良武任さがらたけとうとの、武断派と文治派の対立を生み、遂に陶隆房蜂起へと至るのである。

義隆自刃と大寧寺炎上

 天文20年(1551)8月26日、山口の築山館では、義隆が豊後の大友氏の使者と京都からの上使を迎えて、能楽を催し、歓迎の宴を張って、平素とかわらない様子であった。だが、そのころ陶隆房は既に山口進撃の準備を完了。28日、本拠の富田若山城(新南陽市・徳山市)を出発し、本隊を徳地口、支隊を防府口と2手に分かれて軍を進め、29日正午ごろには内藤・杉の兵とともに山口になだれ込んできたのである。
 これより先、陶隆房謀反の噂は、かなり以前から山口に広まっており、町の中は家財道具を運び出す者で混乱していた。大内氏の一族である武将冷泉隆豊は、事態を憂慮し、陶隆房を討って災禍を未然に防ぐよう義隆に進言しているが、なぜか義隆は、それに対して具体的な反応を示していない。
 急を聞いた義隆は、冷泉れいぜい隆豊、天野隆良、岡部隆景らに防御を命じたが、杉重短、内藤興盛らの重臣が離反するに及んで、28日、遂に築山の館を捨て、難を法泉寺に避けた。初めは三千余人を数えた供奉の従者も、夜からは二千余人となり、陶隆房方に走る者も出て、さらに減少した。
 義隆に随行した公卿衆の一人で、前関白さきのかんぱく二条尹房ただふさは、使者を内藤興盛の許に走らせ、義隆の隠居と長子義尊の家督という条件で、和睦を申し入れたが、興盛に「今更に御存へなるべからず。法泉寺にて義隆は御腹召され候べし」(『大内義隆記』)と断られている。
 一方、山口に攻めこんだ陶隆房は、相良・冷泉など義隆に味方するものの屋敷に火を放った。その火が、宮・寺数十ヵ所に飛び移って、さしも栄華を誇った山口の町はあっけなく焦土と化した。
 義隆主従は、当時最も安定していた長門の仙崎をめざすことになるが、それまで付き添っていた家臣の多くは離反して、一説によると、随行したのはわずか五十余人を数えるにすぎなかったという。
 

大内義隆公兜掛けの岩

大内義隆公兜掛けの岩

冷泉坂

冷泉隆豊最後の奮戦地・冷泉坂

仙崎に着いた主従は、舟を漕ぎ出して脱出を試みるが、風波が荒くて断念し、先祖の開いた大内家の香華院である大寧寺に入った。
 この時早くも大寧寺包囲の気配が漂っていた。自分の命脈を悟った義隆は、住職異雪慶殊が説く、死に臨んでの「即心即仏」の教えに耳を傾けた。異雪和尚は「瑞雲珠大」という戒名を義隆に与えた。義隆は「自分が死んでも、何とかして長子の義尊(7歳)、従者の小幡義美(15歳)、二条良豊(二条尹房の子、15歳)たち若い者を落ちのびさせてやりたい」と懇請した。和尚は承知して寺から脱出を図るが、途中で追手の兵に捕われ、幼い命は無惨にも散ったのである。
 大寧寺での別離の宴のまだ果てやらぬ間に、はや陶隆房一隊のときの声が門前であがった。冷泉隆豊は黒革緘くろかわおどしの物の具に身を固めて、敵方の応待をしていたが、やがて奥に入って方丈に火をかけ、他の武将らと共に義隆の最期を警護したという。
 義隆は、隆豊の介錯で心静かに切腹したと伝えられている。義隆45歳。時に天文20年9月1日。周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・備後の7州の大守として、山口に絢爛たる文化を築きあげた大内氏一族も、大寧寺で終焉を告げ、再び日本史上に現われることはなかった。

▽取材協力 長門市役所
▽参考文献 古川薫著「大内氏の興亡」 長門市史編集委員会編「長門市史」 世良莞一編「曹洞宗瑞雲山大寧護国禅寺略文」