湾沿いに走るバスは、やがて島の東端、通(かよい)漁協前に着いた。ここでバスを降り、東側の石段を登りつめたところに清月庵(観音堂)があり、その境内に一基の墓碑が海に向かって照っている。これが国指定の史跡、青海島鯨墓である。
 花崗岩で造られた高さ2.2メートル、幅0.41メートルの碑面には、『南無阿弥陀仏 業盡有情 雖放不生 故宿人天 同證佛果(業つきし有情、放つといえども生ぜず、故に人天に宿し、同じく佛果を證ぜん)』、側面には元禄5年(1692)5月の建碑年月と願主3人の名が刻まれている。墓の背後にの空き地には、元禄5年から明治初年にかけて、近海で獲れた鯨の胎児が葬られているという。
 「昔はな、このあたりではよく鯨が寄ってきて獲れたものよ。元禄5年というがな、向岸寺に讃誉上人(さんよしょうにん)という偉い和尚さんがおって、ここに観音堂を建てられ、寺職を後の者に譲って自分は念仏三昧に入り、鯨の霊にも念仏回向を手向け、村の衆にも勧められた。浦で獲れた母鯨の中に胎児がいると、乗組員や檀家の網元に頼んでおいて、いちいち胎児を運ばせ、一体ずつ、ていねいにコモなどにくるんで、ここに埋葬したんじゃ」と、島の古老が話してくれた。
 この鯨墓は、いうなれば北浦捕鯨の歴史と、海の荒くれどもの、やさしい心根を象徴する記念碑でもある。


薬師如来のお告げ鯨墓

 我が国の捕鯨の歴史は古く、鯨骨の出土例を根拠にすれば、起源は遠く縄文前期にまでさかのぼる。長門北浦の沿岸でも弥生時代前期と見られる発見例がある。いずれにしても、鯨肉が貴重な蛋白源であり、鯨油の用途は広く、鯨骨も各種の用具に加工されるなど、鯨の資源性の高さは昔も今も変わりない。
 それにしても当時、あの巨大な海洋生物を、どのようにして捕獲したのであろうか。もちろん浅瀬や岸辺に漂着して自由を失ったり、シャチに襲われて傷ついた鯨を捕獲したことも考えられるが、銛(もり)をもって鯨を突き獲るという勇敢な捕獲法もあった。しかし、藁(わら)縄の網を使用した「鯨突き」は、網が切れて取り逃がすことが多く、やがて苧(からむし)縄の網に追い込んで銛をうつ「網獲り捕鯨」に進歩してきた。
 長州藩で「網獲り捕鯨」が鯨組という浦全体の組織によって大規模に行われるようになったのは、北浦沿岸では通浦と瀬戸崎浦が最初で、その時期は寛永~延宝(1661~1680)のころといわれる。
 「正福寺縁起由緒書」によると、通浦では延宝元年(1673)鯨組ができたものの、鯨がなかなかうまく獲れなかった。そこで勝福寺薬師如来にお伺いをたてたところ『苧網を用いるように…』とのお告げがあったので、以後苧網を使用するようになったという。
(写真)鯨墓は海を見下ろす高台にある


戦国武将の系譜

 一定の網代(漁場)を持ち、多数の網船や大勢の漁夫を抱える鯨組は、膨大な資本と設備、労働力を必要とした。近世末期の瀬戸崎鯨組の編成と規模を『風土注進案』によってみると、まず船は惣海船(網船)6隻、荒手網船1隻、鯨船は5隻となっており、乗組員はそれぞれ12~3人。各船とも8挺櫨仕立てで、銛4本と剣1挺を積んでいた。
 鯨が内海にはいると、まず山見役が合図をする。合図の方法は青松葉をいぶしての狼火(のろし)か吹流し、旗などである。このとき捕鯨船団は一誠に動き出すが、その数は惣海船、荒手網船、網頭宰料船(漁船)、道具方の乗り船、「旦那船」と称する船、荷物の運搬や沖合と陸上の連絡に当たる船など、一度に出漁する船団は15~6隻以上におよび、乗組員は120~130人。これに納屋方勤務が10人、山見4人として、常時抱え要員は150人ほど。このほかに浦方役人、地下雇人などを合わせると200人近くになったという。早川家住宅
 鯨組の支配は数人の網頭が実権を握ったが、さらにその中から2、3人の「惣網頭」を選んだ。惣網頭の権力と経済力は「浦大名」といわれるほどだったが、通、瀬戸崎の各鯨組に共通していることは、各網頭の系譜が、いずれも戦国武将の血をひいていることである。早川家住宅天井 
 例えば、通鯨組草創期の網頭として名を連ねる早川清兵衛は、もと大内氏の家臣で、大内義隆が陶晴賢(すえはるかた)に攻められて青海島へ落ちのびたとき、船を仕立てたといわれる後根壱岐(あとねいき)の子孫であり、同じく網頭池永藤右衛門の祖先池永三郎は、京都船岡山の合戦の功によって、大内義興から軍注状を授かった武将である。
 ちなみに、青海島通西町の早川家住宅は、鯨組網元の家の一つ。梁をふんだんに使った鯨屋敷と呼ばれる豪壮な構えから、かつての網元の勢力が伺える。
(写真上)青海島東端、通漁港は現在も近海漁業の基地として活気がある。
(写真中)早川家住宅は全国的にも数少ない漁家の遺構で、国の重要文化財。
(写真下)土間の天井には太い梁が露出している