夏草や、サビエル公園

 聖フランシスコ・サビエルの記念碑が建つサビエル公園を訪ねるため、公園付近で町の人に道を聞いた。
 「サビエル記念碑はどちらでしょう」
 「亀山ですから、方向が違います。県庁の方に戻られたら…」
 サビエル記念聖堂とサビエル公園とを間違えて教えていることがすぐに分かった。
 「記念聖堂ではなくて、記念碑のある公園を訪ねたいのですが」
 「さあ、よく知りませんのですが…」
 捜しあてたサビエル公園は、自衛隊山口駐屯地の傍にあり、記念碑は夏草が生い茂る公園の真ん中に、ぽつんと建っていた。残暑の陽射しの中、それでいて何か閑散とした印象だった。何故か、芭蕉の「夏草やつわものどもが夢の跡」――この句が頭をよぎった。
 ここが、日本最初のキリスト教会の跡なのである。

 天文20年(1551)4月、サビエルは大内義隆のもとで繁栄していた山口に再度やって来て、公式に領主義隆に会って布教の許しを乞うた。もともと、サビエルは京都に入り、全国伝道の許可を後奈良天皇か、将軍足利義輝から得ようとしたが、政情不安で意が得られず、そこで、天皇か将軍に献上する予定であった望遠鏡、時計、洋琴、書籍など、西洋の貴重な文物を義隆に贈った。
 サビエルは、義隆から廃寺となっていた大道寺(現サビエル公園)を与えられ、ここを拠点として、同行のホアン・フェルナンデス修道士と山口の辻々に立って布教に努めることになるのである。
 「神の愛は寛容で親切。人をねたまず、責めず、けんそんで礼儀正しい。不正をきらい、真理を喜ぶ。日ごろの神への祈り、ゆるぎない信頼が個人や社会に平安をもたらす。……」
 と、熱心に大衆に説いたに違いない。やがて約500人もの信者ができたという。

ビリヨン神父と記念碑

 公園の片隅にビリヨン神父の像(創設昭和3年1月、復旧27年10月26日)が建っている。サビエルの記念碑と向かい合うように、しかも控え目に立っている。サビエルを顕彰する上で、ビリヨン神父をぬいては語れない。神父はフランス人で、キリスト教解禁前の慶応年間に日本に入り、宣教の先駆者として苦難の道を歩んだ。
 明治22年、山口のキリスト教会に着任。そして、日本キリスト教会発祥の地である大道寺跡探求に乗り出すのである。大道寺は、大内氏が亡んだ後、日本におけるキリシタン弾圧のことなどもあり、その遺跡はどこかわからなくなっていた。偶然にも、山口の旧家、安部家のふすまの下張りになっていた古地図を発見、現在の位置を想定することができた。
 そこで、ビリヨン神父は、サビエルの記念碑を建設する計画を立て、原敬総理大臣や寺内正毅伯爵、鮎川義介氏など、時の政財界の大物に相談、大正15年10月、高さ10メートルに及ぶ花岡岩にサビエルの胸像をはめこんだ碑を建てることができた。この碑の胸像は、太平洋戦争のために供出されてしまったが、戦後、再び碑の建設が提唱され、山口県出身の河内山賢祐氏の彫刻になるものが、サビエル来朝400年を記念して、昭和24年に再建された。

城主の子サビエル

 フランシスコ・サビエル(Francisco Xavier 1506〜1552)スペイン人。イエズス会の宣教師。日本キリシタン布教の先駆者。ナバラのサビエル城の城主の子に生まれ、パリに遊学中、イグナチウス・デ・ロヨラらとはかってイエズス会を設立。ポルトガル王ジョアン三世から、東インド布教を要請され、天文11年(1542)インドのゴアに渡り、セイロン、マライ、マラッカ諸島で布教活動をする。
 マラッカで日本人アンジロウに会ったことから日本布教を志し、天文18年、アンジロウの案内で鹿児島に上陸、領主島津貴久の保護のもとに、日本最初の布教を行う。その後、貴久が仏僧の言をいれて、禁教に傾いたので肥前平戸(長崎)に移り、更に周防山口に赴き、大内義隆に面会した。
 山口で約1ヵ月間、無許可で布教した後、日本の権力者に布教許可を求めようと京都に上ったが、目的を果たすことができず平戸へもどる。
 天文20年、再び山口に入り、領主義隆に贈り物をして布教の許可を得、やがて数百人の信者を獲得するに至る。さらに豊後府内(大分)の領主大友義鎮(よししげ)に迎えられ、布教を許される。
 こうして、サビエルは日本伝道の基礎を築き、また将来の方針を立てたのちゴアにもどり、あらためて中国への布教の旅に出た。広東に近い上川島に上陸したとき、熱病にかかり、天文21年(1552)、46歳で没した。日本滞在は約2年あまりであった。元和8年(1622)聖人に列せられた。サビエルの死後、キリスト教宣教師があい次いで来日、布教とともに教育事業、慈善事業を行い、ヨーロッパの医学、科学も併せて日本に伝えている。

山口切支丹巡礼の譜

 領主大内義隆は京都の生活に憧れ、文芸を奨励し、キリスト教も擁護した。義隆を自刃に追い込む家臣陶隆房(晴賢)の陰謀が明かるみに出たのは、サビエルが山口から豊後(大分)へ足を向けた十数日あとのことであった。義隆は、一旦は海路九州に向かおうとしたが、その意を果たさず長門に逃れ、湯本の深川川(ふかわがわ)のほとりにある大寧寺に入って切腹した。時に天文20年9月30日、義隆45歳、サビエル46歳だった。山口に絢爛たる京都文化と西洋文化とを築いた、さしもの大内一族も、再び日本史の上にその名を現わすこともなく姿を消したのである。
 サビエルに後事を託されたコスメ・デ・トレス神父は危うく難を逃れることができた。隆房は大友義鎮の弟で、また義隆の甥でもあった晴英(義長)を迎えて大内氏を継がせた。山口に平和が戻り、山口のキリスト教徒はサビエルによって洗礼を受けた500人に、トレス神父とフェルナンデス修士によって信仰の道に入った1500人近くが新たに加わり、一挙に2000人もの信徒を持つに至るのである。然るに弘治元年(1555)陶晴賢は毛利元就に討たれ、同3年には、義長も長府(下関)で自刃。新領主元就はキリシタンに好意を持たなかったので、信徒は離散の運命をたどった。
 トレス神父が亡くなってから16年後の天正14年(1586)元就の孫、毛利輝元はキリシタン大名黒田官兵衛や叔父の吉川元春と小早川隆景の3人に説得されて、神父達を山口に受け入れ、没収していた教会の土地も返した。しかし翌年、豊臣秀吉の禁教令が出たのを楯に取って、宣教師達を平戸に追放する。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、輝元は周防・長門だけを領有することを許されて山口に移ってきた。山口には養子の毛利秀元のおかげで宣教師もいたし、輝元の側近にも僅かながらキリシタンの重臣もいたが、輝元は仏教を奨励し、キリシタンを迫害した。慶長7年10月には宣教師の終局的な放逐を行い、以後、キリシタンの悲惨な状態は明治維新まで続くのである。
 信徒への迫害の嵐は慶長10年7月から吹き荒れる。熊谷豊前守は萩で、琵琶法師ダミアノは山口の一本松で処刑された。この2人の殉教を合図に死刑執行が続く。
 信徒の逃散は弘治3年(1557)ころから既に始まっていた。山口から逃避した信徒の数は1400人以上であったと推定されている。彼等は集団で逃散したのではなく、山口を囲む山々にひっそりと隠れたり、周辺の紫福(しぶき)、阿川、日置(へき)、殿居(とのい)、長府、岩国、小郡などの地主のもとに安全な住居を見つけたりした。また、かなりの人は周防・長門の国境を越えて石見、伯耆、因幡、美作、備後などに定住した。
 古文書によると、山口のキリシタンは前述の地方のほかに、九州の北半分に散って根をおろしたことがわかる。また、小倉や広島に住んでいた宣教師たちは、密かに山口の500人ぐらいの信徒を訪れ、慰めていたという資料も残されている。

 今日、萩をはじめ県下各地には、十六、十七世紀の隠れキリシタンの遺物が多数残っている。例えば、サビエル、トレス、フェルナンデスを護った内藤隆春の墓、小早川隆景夫妻(その息子がキリシタン)の墓、熱心な信者であった毛利秀包(ひでかね)と妻の大友マジェンシアの墓、毛利の家臣長岡重良左衛門、天野五郎右衛門、その他数え切れないほどの無名の一般信徒の墓があちこちに残っている。
 サビエルと大内義隆との出会いが、山口でのキリシタン信者の悲劇を産むことにもなったが、戦後は、元藩主毛利家とカトリック教会との結びつきは深いものとなり、歴史の大きな流れを感ぜずにはおられない。
(この項は、サビエル記念館発行、ガルシア・ホアン神父著「切支丹巡礼の譜」の序文を参考にしました。)

日本最初のキリスト教会、大道寺跡にある聖サビエル記念碑

サビエル肖像

大殿大路の井戸の傍らで布教するサビエルの像


大内義隆



サビエル記念聖堂は、昭和27年に来山400年を記念して山口市のほぼ中央、亀山に建てられた。平成3年9月に焼失。


世界で初めて書かれたサビエルの伝記(1597年作)で、偉業が後世に伝えられた。
サビエルが不況の際に携帯していたミサ典書、聖杯、ひょうたん。(レプリカ)

平成10年4月に再建した現在のサビエル記念聖堂

サビエル記念聖堂のいま

 サビエル記念聖堂の正面に立つ。(この時の聖堂は1991年9月5日、失火により焼失)向かって左に1551、右に1951の数字。真ん中に「サビエル記念聖堂」とある。左の1551はサビエルが大内義隆に会い、布教の許可を得た年、右の1951は聖堂が着工した年である。ひと目で400年の歳月が伝わってくる。
 サビエル記念聖堂は、昭和26年にサビエル来山400年を記念して全世界の浄財により、山口市のほぼ中央、亀山に着工、翌27年に完工した。
 聖堂の正面はスペイン、ナバラのサビエル城の正面をかたどって造られ、建築様式はローマ式で、典型的なカトリック教会の聖堂である。なお、この聖堂はサビエルと同郷のドメンザイン神父の献身的な努力によって完成した。聖堂内は25枚のステンドグラスに取り囲まれ、特に両側面の5枚づつ、計10枚のステンドグラスは――

・サビエル城でフランシスコ誕生
・母や兄に別れを告げ、ソルボンヌ大学へ
・大学の助教授から、一転して宣教師へ
・インドに行く前にパウロ三世教皇から祝福
・ポルトガルのリスボンからインドへ
・アジアの地図を持って日本へ向かう
・鹿児島、平戸を経て山口に到着
・山口の領主大内義隆に宣教の許可を受ける
・山口の町で道行く人に説教
・山口を去るサビエルに別れを惜しむ信徒

 サビエルの一代記を絵物語風にまとめ、聖堂を訪れる人々に語りかけている。
 ドーム風の中央祭壇の壁画は大内義隆に送られて山口を去るサビエルをモチーフとし、キリストを中心に、右にサビエルと日本の殉教者たち、左には神の母マリアとべトロに続く教会の聖人達が描かれている。長崎出身の中田秀和画伯の大作である。
 ミサを行う椅子の横の机に「サラーム」という名の本が積まれていた。その横にボール箱の募金箱。中東・レバノンの子供たちの悲惨さを訴えた写真集であった。
 「中東レバノンの子供たちは、ご覧のように体も心も傷つけられています。私たちも、この子たちに何かしてあげようではありませんか。この本をお持ちになって、どうぞカンパしてください。集まったお金は当教会がユニセフに贈ります。」と書かれていた。
 痛々しい子供の痩せ衰えた姿が受難のキリスト像のように映り、殉教のキリシタンと二重映しとなった。その傍を、観光旅行を楽しんでいるらしい若いアベックが腕を組みながら、笑い合って通り過ぎて行った。

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