参考文献/村上護「山頭火放浪記」・金子兜太「山頭火著作集」「俳人山頭火の生涯」ほか

十一歳の慟哭

 山頭火に、一葉の若き日の写真がある。山口中学時代のものであろうか、長身、紺がすり、まん丸いめがね、その奥の眼が悲しいまでに澄む。山頭火11歳のとき、井戸に身を投じて自らの命をたった母の姿を見て以来、この眼からは、終生救い難い悲愁の色が消えることはなかった。
 山頭火は明治15年12月3日、山口県佐波郡西佐波令村第136番屋敷(現・防府市八王子2丁目13-12)、父種田竹治郎、母フサの長男として生まれた。本名正一。種田家は近在の人から「大種田」と呼ばれる大地主で、「大種田の人は、家から三田尻駅まで、他人の土地を踏まずにいける」ことが語り草になっているほど。山頭火は、大家の坊っちゃんのして、周囲の人から可愛がられながら育った。

山頭火生家跡(防府市八王子)

 そんなある日、明治25年3月6日、母フサの突然の他界であった。享年33歳。夫、竹治郎が遊蕩・放埒の人で、この日も女を連れて旅行中だったらしく、フサはこうした竹治郎に対し、悲観・絶望した末、死の抗議をしたのではないかともいわれる。ときに山頭火11歳、土間に引き上げられ、むらさき色の顔になった母の姿を見たときの激しい慟哭はそのまま無常観となって心の奥深くすみつき、ことあるごとに山頭火を放浪と行乞の旅にかりたてることになったのであろうか。
 残された5人の子供の世話をしなければならなくなった祖母ツルはいつも「業(ごう)やれ業やれ」と嘆き、呟いていた。「業やれ」とは、祖母の悲しいあきらめであり、母亡きあと山頭火はこの「業やれ業やれ」を聞いて育った。

惑い、解くすべもなく

 明治34年、山口中学から早稲田大学に学んだが、同37年8月強度の神経衰弱のため中退、帰郷、父とともに大道村に移り酒造業を始めた。「禅坊主になるのだから嫁はもらわん」と言いながらも、父の強引なすすめで同42年8月、山口県佐波郡和田村高瀬、佐藤光之輔之長女サキノと結婚、翌年8月には長男健が生まれた。

山頭火像(JR防府駅前)

「さゝやかな店をひらきぬ桐青し」
 山頭火が熊本に移ったのは「層雲」同人の兼崎地橙孫や友枝蓼平、林葉平、西喜痩脚らを頼ったのである。市内下通り1丁目に「雅楽多」という額縁店を開いた。山頭火はすでに「層雲」の中堅作家だったが、作品のためには生活を犠牲にしても顧みないという破滅型作家の半面を持っていた。
 大正8年10月、山頭火は妻子を置き去りにして上京した。セメント試験場のアルバイトから、翌年には一ツ橋図書館へ勤務。この年11月、妻の実家から送られてきた離婚届に捺印して戸籍上はサキノと離婚した。同12年9月1日、関東大震災に遭い、着の身着のままで熊本に帰ってきた。
 身も心も疲れ果てていた。大正7年6月18日、弟二郎が岩国愛宕山で縊死、山頭火は岩国まで走った。「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」、種田家破産以来、養子先から離縁された薄幸の弟の自殺は悔やんでも悔やみきれなかった。翌年12月には祖母ツルが死んだ。山頭火は祖母のことを「不幸だった―というよりも不幸そのものだった。彼女の高恩に対して私は何を報ひたか―略―九十一歳の寿命は、不幸が長びいたに過ぎなかった」と日記に書いている。翌10年には遊蕩の父竹治郎が病死したが、その哀れな最後を看取ることもしなかった。これが「業やれ」というものであろうか。そんな中でぶつかった関東大震災、ここでは一挙に破壊された物質文明の脆さと人間世界の荒涼を目撃、追われるように熊本に帰ってきたのである。鬱屈と挫折、そして無常観―。
 泥酔した山頭火が、熊本公会堂の前で、進行中の電車の前に両手をひろげて仁王立ちになったのは、翌大正13年師走のある日だった。自殺しようとしたのか、それとも酔狂か、電車が急停車したので事なきを得たが、騒ぎが大きくなり、警官もやってきた。そのとき、一人の老人が「こっちへ来い」と、山頭火の腕をつかんで歩き出し、禅寺の報恩寺に連れて行った。
 住職望月義庵は、この酒徒を温かく受け容れ、「無関門」1冊を貸し与えた。寺には、来る者を拒む門はないが、その門は自分の手で開けなければならない。山頭火はその日から義庵和尚に師事、読経、座禅、作務に励むようになった。翌大正14年2月、義庵和尚を導師として出家得度した。法名は耕畝、ときに山頭火44歳。同年3月5日には、熊本県鹿本郡植木町の味見観音堂(曹洞宗瑞泉寺)の堂主となった。

「松はみな枝垂れて南無観世音」
 観音堂は百数十段の石段の上にあった。51軒の檀家が順番で毎朝、手桶に2杯の水を担い上げてくれた。しかし、村人たちの温情にひたりながら、近在を行乞するだけの静かな生活は余り長く続かなかった。「松風に明け暮れの鐘撞いて」、朝晩の鐘をつくくらいのことで、檀家から供え物をいただき、養われることが苦痛になったのか。
 「解くすべもない惑ひを背負うて―」山頭火が一笠一杖の姿で観音堂を出たのは大正15年4月10日、再び堂には帰ることなき流浪・行乞への旅立ちであった。日ごろから心を寄せていた俳人尾崎放哉が死んだのはその3日前、山頭火はそれを知ってか、知らずか。