国宝・山水長巻は、画聖雪舟が、晩年、第二のふるさととして常住した周防山ロの雲谷庵(うんこくあん)で描きあげた畢生の大作である。絵巻は縦39.7センチの紙18枚(最後の1枚は白紙)を継いだ全長15.92メートルにも及ぶ。
 墨の濃淡を基調として淡彩をほどこし、春から冬にいたる四季の情景を描いているが、春夏秋冬ほぼ同じ量を占め、しかも四李ごとに初・猛・晩に描き分け、四季の移り変わりが、連綿と、たくみにとり入れられている。


 巻を開くとまず、早春の山道を一人の老士が杖をついて登り、そのあとに荷物をかついだ徒僕がつづく。画家は、ときに画中の人物となって語りかけるというが、この老士も、人生を旅する雪舟その人かもしれない。老士の歩きつづける道は、全巻を通じて、四季それぞれの風景の中に見え隠れする。道は、ときに閑寂な林に入り、橋を渡り、ときに険しい断崖地帯に分け入るが、大きな岩を境にして明るい初夏の海に出る。
 さわやかな日差しのもと、帆をたたんだ船の群れが芦洲に点在する風景がひらける。ここを過ぎると再び広々とした水辺に出、さらに巻を追ってゆくと、山間の市に秋の収穫を持ちよって雑踏する群衆が克明に描かれる。

山水長巻
 秋のにぎわいが去り、やがて冬がきて、都城の城壁が長々とつづき、再び春が萌す。雪舟は緑の芽ぶく2本の木でこの長巻をしめくくった。
 山水長巻は、まさに天と地、山と水、岩と樹木そして人との大自然がおりなす壮大なドラマである。わずかな色彩ながら春・夏・秋・冬の移り変わりが微妙に描き分けられ、何の不自然さもなくつづいてゆく。さらに注目すべきは、この絵巻の一図一図が、一分の隙も見せぬ四季の山水図を構成し、雪舟画の真髄を見せてくれることである。山水長巻は雪舟が、ゆかり深き山口にのこした大いなる遺産である。


雪舟

 雪舟は応永27年(1420)備中赤浜(岡山県総社市)に生まれた。幼いとき、赤浜に近い宝福寺にあずけられたが、絵に夢小になって経を学ばず、和尚に柱に縛りつけられ、流した涙を足の指で、床にネズミの絵を描いたという「本朝画史」に出てくる話は、おそらく作り話であろう。
雪舟は11、2歳のころ、京都の万年山相国寺(そうこくじ)に入ったらしく、師から等楊の諱(いみな)を与えられ、一時期は雲谷と号した。ここで、春林周籐(しゅんりんしゅうとう)について禅の修業を積み知客(しか)の職にのぼり、また画僧周文(しゅうぶん)について絵を学んだ。
 水墨画はもともと禅宗とともに大陸から伝来したもので、その主流の人々は黙庵(もくあん)、可翁(かおう)、明兆(みんちょう)、如拙(じょせつ)、周文と、みな禅僧であった。雪舟が師事した周文は、瓢鮎図(ひょうねんず)で有名な如拙の弟子で、足利将軍の御用絵師であった。雪舟は周文について学ぶと同時に、当時しきりに伝えられた宋・元・明の絵を研究、ひそかに渡明を志向していたといわれる。 山水長巻
 雪舟が相国寺で修業していたころ、京都には周防出身の桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)、勝剛長柔(しょうごうちょうじゅう)などの禅僧がいて親しくまじわり、雪舟はこれらの人々から、大内氏の府城として栄える山口の事情を知らされていた。雪舟の山口来往はこの人たちの斡旋によるところが多かったのではないかといわれる。
 雪舟がいつごろ山ロに来たか、年代ははっきりしないが、当時、東福寺岩栖院(がんせいいん)の皐羽之恵鳳(こうしけいほう)が書いた詩文集「竹居西遊集」によると、寛正5年には雪舟は間違いなく山ロの北東、天花七尾連山のふもとに雲谷庵を結び、作画に励んでいた。
 同年、恵鳳は幕府の使者として山口に赴き、香積寺(こうしゃくじ)内大蔵院に滞在していたが、ある日雲谷庵に雪舟を訪ねた。そのときのことが「竹居西遊集」の中に「楊知客に寄すならぴに序」と題し次のように書きのこされている。
 「楊雲谷、けだし顔秋月、常牧渓の人となりを慕ひ、伝染を以て人の上に居る者なり。方今らく下の画榜に登る者、数人にすぎず。里譚巷論、児童走卒もみな西周に楊知客あるを知る。予たまたま事を以てこの間に居り、一日その蝸房をたたき、すこぶる前十年の握手を説く。故人の意なき能はず。よって揮毫し、有声の画を作り、以て之に戯れていふ。
京洛かつて遊ぶ楊客卿
茅を結び、この地に終生を要す
よるこぶべし、君の画格天下に出づるを
児卒もまた雲谷の名を知る。」
 楊知客の「楊」はいうまでもなく雪舟等楊の「楊」である。寛正5年は雪舟44歳、このとき恵鳳は雪舟と十年余の旧懐を温めたというから、雪舟35歳のときは京都で恵鳳と親しくまじわっており、その後山ロに来往したことになる。恵鳳が雲谷庵を訪ねたころは、雪舟の画名すでに高く、都(らく下=洛陽=京都)でさえ画家として門戸を張る者が少ないのに、雪舟は周防にあって、子供や無学の人にまで名が知れわたっていたというわけである。