敷山城址への登山道

 日本史上まれに見る乱世だった南北朝時代。京都を中心に全国各地で動乱が繰り広げられたが、ここ周防の地、矢筈ヶ岳(山口県防府市)の一角でも670余年前、北朝軍と南朝軍の間で激しい戦火が交わされ、南朝武将の哀史を今にとどめている。
今回取材スタッフは、周防の南北朝時代の歴史を訪ねることとなり、7月中旬この舞台となった矢筈ヶ岳敷山城址に登った。矢筈ヶ岳は防府市内、防府平野の東北端にある海抜460メートルの山。山麓で車を降り、狭い山道を一歩一歩登って行く。急勾配の所も多く、前日来の雨で滑りやすい。確かに攻めるには困難な峻険であったに違いない。験観寺の礎石
登ること約40分。敷山、験観寺の本堂跡に着いた。この矢筈ヶ岳の南面八合目付近が敷山と呼ばれている。寺坊の跡が12ヶ所残っているところから「十二壇」とも言われている。最頂部にあるのが験観寺の本堂跡で、ここに防長の南朝軍が立て籠もった戦ったことから敷山城とも呼ばれた。本格的な城が構築されていた訳ではない。
この本堂跡は、約600平方メートルの広さで、方形に石垣をめぐらし、礎石も完全に残っている。戦士たちを祀るため敷山神社も建てられている。本堂跡の一角だけは夏草もあまり生えていない。頻繁に訪れて清掃や除草をしておられるのであろう、地元の人たちの思いが伝わってきた。梵字岩
付近に梵字岩と呼ばれている。巨大な自然石がる。梵字を中心に「金輪聖王天長地久」「文久二年酉乙五月」と刻してあるのが僅かに読み取れる。建立の年代から見て敷山の戦いには関係ないが、義に殉じた南朝武士たちの霊を弔っているようにも思えた。
頂上付近の木々の間から防府平野が一望できた。佐波川の豊かな流れも見える。このふるさとの山河を血で染めて、どのような戦いが繰り広げられたのだろうか。(写真上)敷山城址への登山道 (写真中)験観寺の礎石 (写真下)梵字岩

 本題の敷山城の戦いに入る前に、南北朝時代の全体的な状況を見ておきたい。
南北朝の動乱は、最初の武家政治である鎌倉幕府が倒れてから、第二の武家政治である室町幕府の全国統一が実現するまでの、約70年間にわたる全国的内乱を指す。即位以来天皇親政を念願し、密かに倒幕の機を窺っていた後醍醐天皇が1331年(元弘一・元徳三)8月倒幕の兵を挙げる。楠木正成もこれに呼応して挙兵、動乱の序曲である。
以後、様々な多彩な人物が入り乱れて乱世を彩る。最大のスター足利尊氏を中心に、後醍醐天皇、知将楠木正成、新田義貞らが命運を賭け戦う。動乱は全国的な規模で広がり、地方の武将たちも中央の動きを見ながら、複雑な離合集散を繰り返し、戦いの渦に巻き込まれて行く。

 周防の武士が挙兵し、敷山城の戦いが起きたのは1336年(延元一・建武三)だがこの年、周防国の国務を管理する国司上人は、京都法勝寺の長老、円観上人が務めていた。円観上人は後醍醐天皇の寵遇が厚かった。
この頃の行政は、国司上人は京都に留まり、その部下がそれぞれの国庁で行政に当たる仕組みになっており、周防国では目代は葉仙房、小目代は円観上人腹心の東大寺の僧、摂津助公清尊、検非違使は助法眼教乗がその任に当たっていた。
この年の正月、京都の戦に敗れた尊氏は一旦、九州に落ちて再起をはかることとし、部下の将を山陽道の諸国に配置して、官軍の追撃に備え、周防国には守護大内長弘、長門国には守護厚東武実を配置した。防長地方の豪族の大勢はすでに尊氏へと靡いていた。
4月、早くも尊氏は九州から東上の途につくが、この途中二十日間も長門の長府に滞在している。東上を急がねばならないはずの尊氏が、何故ここで足を止めていたのだろうか。敷山城址
その理由は、長府の地が太宰府とともに西日本の武家勢力の中心地であり、尊氏がこれから京都に攻め上がるためには長門、周防、石見などの諸国を完全に手中に収め、既に勢力下に入っていた九州との連絡を確実にして後顧の憂いがないようにするための体制整備に時間を要したのである。
尊氏はこの長府滞在中に、自分の一門一族である上野頼兼を石見国の守護に任じて、中国地方全域の総指揮者の役割も与えた。かつて北条氏が長門探題を置いて、中国の押さえにしていたと同じような防衛システムを確立したのである。
かくして、周防、長門、安芸、石見など近隣諸国の豪族は競って頼兼の旗の下に集まった。周防国の大内弘直(長弘の甥)だけは反尊氏の姿勢を貫いていたが、その勢力は振るわず、これに反して尊氏の傘下に入った長弘は大内家の長老として一族の支持を得、長門の厚東とも結束を固め、勢力を伸ばしていった。こうした中、尊氏は長府を出発京都を目指した。(写真)山頂の敷山城址

 防長の天下が尊氏へ靡いていくのを歯がゆく見ている男もいた。周防国府の清尊と教乗である。彼らが深く尊敬している最大の上司の円観上人と後醍醐天皇との深い繋がりを思うと、尊氏憎しの血がたぎる。だが、身は僧籍にあり武力は持たない。勝負も既に見えている。
しかし後方を攪乱し、尊氏に一泡吹かせることは出来るのではないか。清尊と教乗は遂に決断した。僧衣を捨て、勝ち目のない戦いに向けて兵を挙げた。尊氏が湊川の戦で楠木正成と、新田義貞を破った直後の5月末であった。防府市内を望む
清尊と教乗が頼りにしたのは、国府領内の民衆だった。国庁の官吏と民衆の接触は密接であり、特に教乗は、検非違使として13年間も警察業務に携わっており、人々の信頼も得ていた。二人の呼びかけに、たちまち千余の人が馳せ参じた。反尊氏の大内弘直とも連絡をとった。
次の問題は挙兵の場所、城である。国庁は周南の平野にあって城には適していない。そこで清尊等は、矢筈ヶ岳中腹の験観寺に目を向けた。大きな寺で、本丸、二の丸になり得る建物も備わっている。寺の西には清冽な水が湧き出る泉があり、東には深い谷もある。谷は自然に備わった堀の役割を果たし、飲料水の心配もない。南西には多々良山、北東には大平山という険しい山があり、この山の間に畑峠と真尾峠はともに狭い。矢筈ヶ岳の北と西は佐波川で守られ、守るに易く攻めるには難しい天然の要害であった。(写真)敷山から防府市内を望む
挙兵の準備を整えた清尊と教乗は、馳せ参じた同士千余人を率いて一路、矢筈ヶ岳敷山験観寺へ。寺の本堂がそのまま本営となり、その名も敷山城と称した。
城頭高く旗も翻る。これを見てさらに同士が増えてゆく。石見からは官軍の小笠原長光が手兵率いて駆けつけて合流、敷山城の士気は高まった。山上や麓の要衝を固め、周囲の峠や佐波川への兵の配置も終わった。戦いの準備は整った。

 中国地方は完全に掌握したと思っていた尊氏にとって、清尊らの挙兵は青天の霹靂だった。直ちに上野頼兼にこの討伐を命じた。また6月9日、北朝光明院の院宣を申し受けて、円観上人以下、清尊、教乗ら国庁の首脳官吏全員を罷免し、後任の国司上人には戒壇院の長老、十達上人俊歳を任命。俊歳に国衙の周囲8町四方の地を与え、課税なども免除するなどの懐柔策で、これ以上民衆が敷山城の軍勢に加わるのを阻止しようとした。
一方、頼兼は石見、安芸、長門3カ国の大軍を集め、敷山城攻めを開始した。吉河恒明の安芸勢は東から浮野、半上の砦に迫り、永富季明の長門勢は西から佐波川畔へ。頼兼が直接率いる石見勢は北から佐波川に沿って真尾峠と畑峠に進んだ。そして、防府の山野に両軍入り乱れての壮烈な攻防戦が連日連夜繰り広げられた。佐波川
激戦10日余、敷山軍の旗色は次第に悪くなる。衆寡敵せずである。遂に最後の日が来た。真尾峠と畑山峠を突破し勢いに乗じた頼兼軍は、まさに潮の如く城の大手に押し寄せる。矢筈ヶ岳にこだまするときの声、大手門も破られ、二の門も。万策は尽きた。清尊と教乗は残る僅かな同士と本堂で覚悟の自害を遂げた。7月4日だった。
小笠原長光は、一旦落ち延びて石見で再挙をはかったが失敗。大内弘直も上の頼兼の留守の石見で旗揚げして背後を脅かしたが戦死。敷山城を中心とした戦いは南朝軍の敗北で収束した。(写真)防府市内を流れる佐波川

忠魂碑

 敷山城の史実は、歴史のベールに覆われて長い間埋もれていた。
佐波郡牟礼村(現防府市)出身で貴族院議員なども務めた上山満之進氏の委嘱を受けた三坂圭治氏が、昭和4年防府を中心とする郷土史の編纂に着手、これが敷山城確認のきっかけとなった。以後、三坂氏らの丹念な資料探しで、一枚一枚薄紙が剥がれていくように史実が浮かび上がってきた。「敷山城」は何処にあったのかも判らなかった。慰霊祭その「敷山城」が矢筈ヶ岳山腹の験観寺に繋がり、敷山城は敷山験観寺であったと確認されるまでにも、3年あまりの歳月を要している。(写真)敷山中腹にある忠魂碑
歴史学者の長い地道な調査によって、敷山城の存在がようやく確認され、昭和10年敷山城は国の史跡に指定、清尊に正五位、教乗に従五位が贈られた。敷山城の戦いから実に600年後である。また、この昭和10年から、清尊等の命日の旧暦8月2日に慰霊祭が始まった。この慰霊祭は今でも毎年、敷山城址保存会の人たちによって現地矢筈ヶ岳で行われている。なお、験観寺はその後山麓に移されて、寺の名前も現観寺と改められたが、さらに明治の初めに廃寺となり、岩畠の雲岩寺に合併し、現在は極楽寺と称している。(写真)慰霊祭の模様

※取材協力・毛利博物館
※参考資料・三坂圭治著「清尊教乗両師の事跡と敷山城」 三坂圭治著「山口県の歴史」山川出版 臼杵華臣ら共著「防府佐波歴史物語」瀬戸内物産出版部 山口県教育委員会「山口県文化財概要第二集」 脇運雄著「敷山城の義戦」敷山城址保存会