雨の日の墓参

 昭和55年の夏、ある雨の日、山口県大島郡久賀町(現・周防大島町)新開の郷土史家松田国雄さんの家に、60歳前後の、いかにも学究らしい男の人が訪ねてきた。「私の祖父の墓が、この大島にあると聞いてきたのですが、ご存じないでしょうか」。その人は当時、広島大学の教授で佐久間姓、祖父の名は佐久間大学で松山藩士、四境の役に出陣して周防大島(屋代島ともいう)の源明峠(げんめいたお)の激戦で戦死したのだという。
 松田さんには心当たりがないでもなかった。大島郡の中央・大島町と久賀町・橘町の三町が境を接する要の地に、嘉納山という山がある。この山の頂上に、誰がしたのか、自然石を立てて墓らしくしたところがあり、ときどき線香や花が供えられていることを、山の管理人さんから松田さんは聞いていたのである。それが果たして松山藩士佐久間大学の墓かどうかわからぬが、一応現地を訪れてみることにした。
 嘉納山は大島ではいちばん高い山で、標高690メートル、見晴らしがよい。しかし、期待は裏切られて、頂上にはそのような古めかしい、墓らしきものは見当たらなかった。土地の人の話では、ここに無線中継所が建設されたとき、頂上が少し削られたので、そのときお墓らしきものも整理されたのだろうという。松田さんは佐久間さんとともに、頂上に設けられた「四境の役両軍戦死者合墓」に合掌して山を降りた。

周防大島
遠くにかすむ島が幕府の軍艦が停泊した前島。湾内から久賀の町が砲撃された。


「そうせい侯」のはなし大村益次郎

 徳川幕府開府以来、幕府に含むところのあった長州藩には、おもしろい話が伝わっている。毎年、新年の儀に藩主は必ず家臣に問う。「今年あたりはどうかな」。どうかな…というのは、今年あたり討幕の軍をおこしてはどうかなという意味である。
 これに対し重臣たちはきまったように「いまだ時期尚早なれば、もう少し延期なされたほうが…」と、口をそろえて答える。藩主は「じやあ、そうせい」ということになる。これは幕末の藩主忠正公の逸話であるが、彼のことを「そうせい侯」と蔭口する者もあったという。高杉晋作
 慶応2年(1866)の元日に、藩主と家臣の間にこのようなユーモラスなやりとりがあったかどうかは別として、幕府はその年の6月「長州藩において容易ならざる企てがある」とし、諸藩に出兵を命じ、長州藩を圧伏すべく、同藩の四境、つまり芸州口、石州口、小倉口、大島口から攻めたてた。これが世に言う「四境の役」である。山県有朋
 近代的な装備と訓練のゆきとどいた長州藩は、四境包囲の中にあって敢然と戦った。すなわち、芸州口には幕兵および紀州藩兵などの主力軍に対し、長州藩の遊撃、御楯(みたて)、贋懲(ようちょう)、鴻城(こうじょう)の諸隊や岩国の兵が対抗、河瀬安四郎、井上聞多(もんた)らがこれを指揮した。戦いは主として長州藩に隣接する広島藩内で行われ、一進一退の状態だった。
 石州口では、大村益次郎らが指揮する諸隊は浜田藩領に進撃し、浜田城を占領、幕領石見銀山をも手に入れた。小倉口方向でも高杉晋作、山県有朋らの指揮する奇兵隊・長府報国隊などが海を渡って進撃、7月末、老中小笠原長行は長崎に逃げ、8月はじめ小倉城は落城した。長州藩内で戦闘が行われたのは大島郡だけで、あとは全く他藩内で行われ、戦いは長州藩の勝利に終始した。


戦火の地大島

 もともと長州藩では、四境のうち芸州、石州、小倉口の3道進出の計画を立て、大島ごとき離島に大軍を駐屯させることは不利として、小部隊の地元民兵で島の防備に当たらせていた。大島郡民にとって、これは大きな不幸だったのである。(写真) 四境戦争絵図(山口県立博物館蔵)
 四境の役は6月7日、幕府の海軍による大島南岸砲撃で火ぶたを切った。同夜半、幕艦2隻に曳かれて伊予由良港(松山藩領)を出港した松山藩和船10艘は8日未明、周防大島(屋代島)の油宇村に姿を現わし、幕艦の援護射撃のもとに150人ほどが上陸、大島の屋代領主村上河内らは、農兵、僧兵で組織する地元民兵を指揮して防戦したが衆寡敵せず、大島東端の屋代村まで追いつめられた。護国団をひきいていた傑僧大洲鉄然は駕篭を飛ばして山口の本陣に注進した。
大洲鉄然 さらに同日、幕艦富士山丸、汽船翔鶴丸・八雲丸、帆船旭日丸が和船4艘を曳き、幕府麾下の歩兵、砲兵を載せて久賀沖の前島に停泊、10日夕刻にはさらに汽船が和船十余艘を曳いて前島に投錨、大島郡民を不安がらせた。
 そして11日、幕軍は一斉に行動を開始して久賀村を砲撃、海岸の守備兵も備砲を撃って応戦したが、幕艦のアームストロング砲とでは力に段差があった。続いて幕軍約3000人が久賀に上陸、熾烈な戦いを展開したが、地元民兵は退却。同じころ幕艦2隻が安下圧(あげのしょう=橘町)にきて砲撃、松山兵約2000人の上陸を援護、大島からは村上亀之助の兵が出て戦ったが利あらず、源明峠に拠った。覚法寺
 一方、大洲鉄然の注進により長州藩の山口本陣では、第二奇兵隊林半七を総指揮官として、浩武隊、阿月の浦家の手兵、三丘(みつお)の宍戸の兵らを集めて援軍とし、進発させた。12日の夜には高杉晋作が丙寅丸(へいいんまる)に乗り、夜陰に乗じて前島あたりに停泊中の幕艦に奇襲を加えた。
(写真上)傑僧 大洲鉄然 (右)鉄然の生家 覚法寺 (周防大島町久賀)
 待望の援軍が大島西岸の小松開作に上陸したのは15日、幕軍を追いつつ、各所で市街戦、白兵戦を展開、源明峠の激戦に勝ってからは急に勢いを得て安下圧を急襲、その間幕軍も掠奪をほしいままにし、寺院や民家に火を放つこともあったが、16日には援軍が久賀に残る幕軍を総攻撃して、大島から幕軍を一掃したのである。


砲弾奇譚

 久賀東天満町の覚法寺住職、大洲彰然さんが伝え聞いた話では、この戦いで大島の中心地久賀町では、幕軍が、大きな建て物は畳を合掌立てに立てて油をかけ、四方から火を放ち、同寺はもとより町中心部のほとんどは灰燼に帰したという。
 「幕軍もなかなか考えたもので、酒屋が焼けては酒が飲めぬとあって、藤屋という酒屋だけは焼かずにおいて、自分たちで酒を飲んでいたといいます。その藤屋さんは、いまは酒屋はやめていますが家は当時のまま残っています」という。
 同町東下津原の村田茂さんの家では、1個の砲弾を家宝のように大切にしている。四境の役で、村川さん方の納屋に落ちたアームストロング砲の不発弾である。村川さんの祖父が、弾丸から雷管を抜き出して、「家の宝じゃ」と磨いていたという。いま、同家に残っているその砲弾は直径21センチ、20キログラム、真球で黒褐色。
(写真)村田家に残るアームストロング砲の不発弾
 しかし、村田さんのような場合ばかりとは限らない。役後間もないころ、浄光寺下の路上で、1個の不発弾が発見された。当時はまだ大砲の弾丸など見たことのない人ばかりでたちまち黒山の人だかり。砲弾をころがしたり、雷管を押したりつついたりしているうちに、誰かがこじり開け始めた。「こりやなかなか開かんわい。ばてれんの法が使ってあるから、こちとらの手にはおえん」などと言っているところに、一人の石屋が通りかかった。「ばてれんでも生け捕られては法も利くまい、わしが往生させてやろう」とばかり、腰の玄能(大型の鉄鎚)を抜きざま「よいか、ばてれんの正体を見せてやる」と一言、雷管を一繋したからたまらない。大音響とともに砲弾は炸裂、石屋は即死、多数のけが人を出したという後日談もある。


花と武士奇兵隊士の墓

 四境の役大島口の戦いでは、慶応2年6月16日、幕軍は島から一掃されたが、なお源明峠には松山藩軍監佐久間大学正糺(まさただ)らがいて、最後まで踏みとどまり、壮烈な戦死をとげ、いまだに “武士の鑑”として語り草になっている。その情景を、御園生翁甫著「補冊大島郡史談」は次のように綴っている。
源明峠の敵兵中に松山藩軍監作久間大学正純(正糺)あり。味方の敗走せるにも抱らず、最後迄も踏留まり槍を挽きて、長柄の鎌を帯せる我兵と渡り合ふて之を討取り、なほも突進し来りて終に戦死を遂げたるは一異彩なりき。又、来宮伝左右衛門冬広、佐伯景貞、升久(新井)正路等亦大に奮闘して屍を戦場に曝し、勇名を留めたり。
伝へ言ふ。此日の出陣に升久正路が一本の早咲きの桔梗を手折りて槍の柄に結び付けたるを来宮冬広が見付て、今一本なきか、歌はあらぬかと問へるに、正路が「秋近くなりにけりとは紫の花の紐解く折にこそ知れ」と紙片に書き連ねしを、乞ひうけて、之を槍の柄に結びつけ、興に敵中に突進して花々敷き戦死を遂げたること。予て決死の覚悟ありしと知られ、冬広が辞世の歌は「君が為め捨つる命は惜しからず長門の浦の泡と消ゆとも」―略―。明治百年公園
伝えられるところでは、来宮冬仏が松山藩を発つとき「もろともに折りてかへらむおとにきく長門の荻の花のさかりを」と書き残し、6月15日に郷里松山の父のもとに送った手紙の中にも「打ちよする波もろともに打つ筒の音にやはぎの散りはじむらん」「さきみてる時しなければ萩の花みだれかちなるにはのおもかげ」の2首を書き添えて送っている。
 戦国の世からすでに400年、慶応の武士の胸にもまだこのような「死出の美学」が残っていたのであろうか。もちろん、佐久間大学とは、雨の日に松田国雄さんを訪れた佐久間さんの祖父である。


銃兵の墓

 源明峠の四境の戦跡碑をあとに、嘉納山頂の両軍の墓を詣でたあと、島を北に下り、弘法大師空海の築造と伝えられる薬師堂石風呂をのぞき、明治百年記念公園に隣接する追原墓地に入った。現代風墓碑が林立するその中に、二つの、古めかしく低い、花崗岩の墓碑が目についた。
一つは、長い歳月の風雨で斜めにねじれて、30センチほど地上に碑頭をもたげただけの銃兵の墓。碑面は判読し難いが、その横に建てられた標柱には「久行丈之助定信之墓 慶応二年六月十七日四境の役久賀村で戦死 三丘宍戸家銃兵 行年不詳」とあった。
もう一つには「泉徳太郎純成之墓 行年二十歳 慶応二年六月十七日四境の役久賀村戦で戦死す 大野毛利の臣 南奇兵隊士」とある。地元郷土史家の話では、二人とも遺族不明、隊士の墓は銃兵の墓よりわずか10センチほど高かった。お盆と彼岸には、この二つの墓に島人が灯ろうをしつらえ、花を供えるという。墓地北面に広がる安芸灘には、白い波頭がちらちらと走り、この若者の命の軽さを嘆いているようであった。
 追原の墓地を最後に帰途についた。島を一周する国道437号の路面は滑らかに舗装され、ときどき視界に入る日や黄色の線引きがあざやか、とても、島とは思えぬ近代的景観である。そのような近代的道路を外れて、一歩奥へ入ると、そこには遠い歴史を秘める石風呂とか、135年も前の四境の役に散った若い銃兵や奇兵隊士の墓とか、そして旧家に入ると、これも四境の役で幕軍が撃った不発弾が、そのまま床の間に飾ってあるのが見られる。大島は、とくに架橋後の大島は、近代的景観の中にも、ところどころに、こうした古い素顔をのぞかせる不思議な島であった。
(写真)周防大島と対岸柳井市大畠を結ぶ大島大橋は昭和51年に完成。周防大島に近代的な景観を添える。