日本の夜明けめざす

 阿武川の清流があり、土塀から夏ミカンの木がのぞき、武家屋敷が残り、焼き物の窯が散在する山口県萩市。慶長9年(1604)毛利輝元が防長二国の中心として城を構えてから文久3年(1863)までおよそ260年間、36万石の城下町として時を刻んだ。
萩城跡、東光寺、松下村塾、高杉晋作旧宅……いまに至るも、これら多くの史跡、文化財が当時の面影を色濃く残して「西日本随一の史跡都市」を誇っている。


松蔭の生誕地団子岩に立つ、松蔭と金子重輔の像

 三方を山に囲まれ、一方が海に面した静かな町萩に、吉田松陰という《時代の子》が生まれた。おりしも、幕藩体制という封建社会が諸外国の圧力によって弱体ぶりをさらけ出し、日本の国そのものが危殆にひんしたおり、渾身の力をふりしぼって警世の鐘をうち鳴らした師・松蔭と弟子たちはエネルギーをすさまじく燃焼させながら、幕末から明治維新へ日本の夜明けをめざして縦横無尽の活躍を続けた。

 修学旅行の高校生などが貸し自転車で史跡、文化財見学にかけめぐる萩の町。ここで、タイムトンネルをくぐり、城下町・萩に帰ると――。


巡歴で得たもの

 天保6年(1835)6歳で兵学師範吉田家を継ぐことになった松蔭は叔父玉木文之進について山鹿流兵学をはじめ経書、史書などを勉学。11歳の時、藩主・毛利敬親(たかちか)の面前で『武教全書』戦法篇三戦を講じて、その英才ぶりを示した。書斎の学問から実学、実証の道を歩もうと志した松蔭は、嘉永3年(1850)21歳の時、藩の許可を得て平戸、長崎へ巡歴。平戸では陽明学者・葉山左内に師事し、その人格、見識から多くの感銘を受けた。


留魂録 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」
松蔭が獄中で記した遺書の冒頭部分

 50余日の平戸藩滞在中、松蔭が読破したのは約80冊。『聖武記附録』『伝習録』アヘン戦争関係の記事を集めた『阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)』など、当時の海外事情を紹介する書籍に接したことは、松蔭の時勢開眼に大いに役立ったといえよう。その後、長崎、天草、熊本などを訪ねたが、その期間は120日余だった。
嘉永4年(1851)松蔭は藩命で江戸に留学。安積艮斎(あさがごんさい)に儒学、山鹿素水に兵学、古賀謹一郎に洋学をそれぞれ学んだが、江戸留学中、特記すべきことは当代一流の洋学者・佐久間象山(ぞうざん)との出会いだった。開国論、公武合体論を主張した象山の思想は「東洋の道徳と西洋の芸(技術)をあわせて完全になる」という言葉に示されていて、松蔭は象山に傾倒するとともに、洋学への関心を高めていった。
松蔭の西遊、江戸留学に続くのは、東北遊である。12月14日、松蔭は藩の過所手形(身分証明書)がないまま亡命して江戸を出発。水戸で会沢正志斎をおとづれて水戸学の真髄にふれ、白河、会津若松、新潟、秋田、弘前を経て竜飛岬付近から蝦夷松前(えぞまつまえ)方面を望見して北辺への関心を高めた。
松蔭はこの東北遊で士籍を削られたが、その切々たる思いはやまず、嘉永6年(1853)藩主毛利敬親の内命で諸国巡歴の旅に出た。宮島、琴平、大阪と足をのばし、大和(やまと)では森田節斎をたずね、その学識から多くのものを得た。こうした松蔭の巡歴、留学による時勢への開眼は、黒船来航などに現れる諸外国列強化の風潮と相まって松蔭の下田密航失敗へと歴史の歯車を回していく。

 
萩城跡 文久3年(1863)藩府を山口へ移すまでの260年間、毛利氏13代の居城であり、防長両国の政治の中心であった。明治7年(1874)木戸孝允の指示で入札解体、かつての藩主の居城は松蔭門下の手によって、その威容を消されてしまった。