日本の歴史を大きく3つの時代にわけると、まず上代が貴族社会の律令時代、次が武家が政権を握る中・近世、そして議会制民主主義の近・現代ということになろうか。
 これもまた大まかな言い方をすると、この3つの時代の結節点は、一つは源平の決戦であり、もう一つは明治維新であろう。
 つまり、貴族社会への回帰を思考した平氏は、寿永4年(1185)壇ノ浦の決戦で源氏に敗れ貴族社会は崩壊を告げ、変わってわが国最初の武家政権鎌倉幕府が開府する。これが第一の結節点。以後、同幕府の滅亡から一時は戦乱の世をまねいたが、慶長8年(1603)、天下の統一なって徳川幕府が樹立、武家政権が存続してゆく。

 そして幕末、尊王攘夷論は尊皇倒幕へと移行、高杉晋作は功山寺挙兵で倒幕への口火を切った。慶応3年(1867)徳川幕府は倒壊、明治維新は実現する。これが第二の結節点といえよう。そして、この日本史の流れを大きく変えた源平合戦、明治維新という2つのドラマは、奇しくも海峡の町下関がその舞台となった。
 明治22年4月1日、わが国ではじめて市制がしかれたとき、全国で38の市が産声を上げて。赤間関(あかまがせき)市もその一つ、人口3万739人、同35年に下関と市名を改めた。以後ここには関釜連絡船をはじめ、関門鉄道トンネル、関門国道トンネル、関門橋、新関門トンネル、新幹線など、世界的な交通構築物が集中、下関が永遠に日本の交通の要衝であることを象徴している。
 さらにいま、これらと連携する国際ライナーポート、下関・北浦沖合人工島構想などが、下関の21世紀を華やかに彩ろうとしている。


 下関市長府宮の内町の覚苑寺(かくおんじ)境内に、長門鋳銭所跡の碑が早春の日を浴びて建つ。鋳銭所というのは奈良時代から平安時代にかけて、各所に設けられた官営の銭貨製造所であり、長門鋳銭所で鋳造されたのはわが国最初の金属貨幣和同開珎(わどうかいちん、和同開寳ともいう)である。この貨幣が鋳造されたのは和同元年(708)から天平宝字4年(760)にかけてで、その鋳銭所がおかれたのは近江、武蔵、河内、長門、播磨、太宰府の6ヵ所だが、その跡がはっきり残っているのは長門だけである。
 明治44年、覚苑寺住職が本堂の西約25メートルの地点で、地下約1.3メートルのところから銭笵(せんはん)、鞴(ふいご)、坩堝(るつぼ)など百点余りを発見して有名になった。さらに大正10年の「鋳銭司遺跡発掘之記」には次のように記されている。
 「――掘ること尺余にして焼土及び焼灰を認む。それより一層注意して徐々に掘り進むに《開珎》の二字を有せる銭形の一破片を発見、さらに作業を進むるに一塊又一塊、踵(くびす)を接して現はる。又坩堝の破片及び鞴の破片と見なすべき円筒形の土器を得たり。――収得品を整理して之を計上するに銭笵の銭形全(まった)きもの二十個、その幾分を存するもの二十八個、坩堝、銅滓(どうかす)その他雑品五十七個に及ぶ――略」。


覚苑寺境内から掘り出された和同開珎

 和同開珎は、唐の開元通宝によく似た形で、寸法は直径が八分―八分一厘、重さ一・三匁―〇・八四匁。長戸近辺に原料の銅鉱があったことと、当時すでに大陸の鋳造技術がこの地に伝わっていたことなどが、鋳銭所設置の背景にあったともいわれる。なお、長戸鋳銭所は弘仁7年(816)、いったん廃止となったが、同9年復活、同年12月から富寿神宝の鋳造を開始、以後毎年数千貫の鋳造を続けてきたが、鋳銭所は長門から周防に移された。