JR柳井駅から北へ5分ほど歩くと、市内を貫流する柳井川に出る。本橋(もとばし)に立つ、ここからは金屋(かなや)・古市(ふるいち)の商家が裏側を見せてくれる。日差しに映ゆる白壁の家並みが美しい。本橋を渡ってすぐ左へ曲がったところが柳井民俗資料館「むろやの園」、約二百年前に建てられた豪商小田家の建物である。

 玄関の、重い引戸をあげて中にはいろうとしたとき、ゴツンと、鴨居で頭を打った。見ていた女性の管理人が「すみません、鴨居が低くしてあるものですから山と、気の毒そうに言いながら「ここは代々が商家でございますので、商人はとにかく頭を低くしておれば間違いないということから、このように鴨居を低くし、頭を下げないと玄関の出入りができないようにしてあるのです。」と、つけ加えた。
 しかし、玄関から荷物を出し入れするときには、引戸の上下にある鴨居と敷居を同時にあげ、玄関の出入口を広げ、大きな荷物でも、らくらくと出し入れができるような仕組みになっている。このこと一つをとってみても、柳井津商人の「頭を低くする」という商(あきない)の哲学と、荷物の搬出・入のために戸口を広げるという生活の知恵を伺い知ることができるのである。この商の哲学と生活の知恵で、柳井津商人は往時、関西屈指といわれた商都柳井津を築き上げてきたのである。


金屋・古市の白壁の町並み

 「むろやの園」は、小田家が油屋を業としていた当時の屋号が「室屋」だったことに由来する。
 「室屋」は元禄元年(1688)、小川善四郎が柳井津の地で商を興したのが始まりで、当初は菅笠(すげがさ)、打ち綿、反物などを扱っていたが、次第に油を主とした商に移り、最盛期には50石、120石船を50隻も抱え、西は九州から五島列島、東は大阪まで商圏を広げ、西日本有数の油商として活躍した。


むろやの園の瓦の庭

 「むろやの園」の敷地は、間口は東西に約20メートル、奥行は南北に約120メートルと、金屋、古市地区の店構えに共通な短冊型。18室もある母屋をはじめ勘定蔵、米蔵など江戸時代の商家のたたずまいをそのままに柳井民俗資料館として、当時使用していた商具、民具、古文書類、あるいは遠く長崎から求めたコレクションなど多数を展示している。
 資料館は、かつての本蔵、米蔵、勘定蔵、中間部屋、道具小屋、味噌醤油小屋の6つに分かれ、米蔵の一角を利用して昔の帳場を再現するなど興味深いものがある。また、領主吉川公の磯遊びのときの宿となった半閑舎という建物も敷地内に残っている。
 「むろやの園」は、母屋をはじめとする屋敷内の建物は全部で10棟、江戸中期の屋敷構えがそのまま残っている。この屋敷内に展示されている殆どのものは、小田家が代々使ってきたものばかりで、生活用具約1553点、古文書類約1111点とともに、昭和54年に山口県有形民俗文化財に指定されている。