2    

平安後期か鎌倉期に創建か
隆盛、一転戦火で灰燼に

 

 不動院の創建年代や由緒については不明な部分が多い。奈良時代から鎌倉時代初頭にかけては奈良西大寺の荘園「牛田荘」 が知られているが、この寺院との関係は明らかではない。不動院の歴史を知る上で、貴重な記録として残っている「新山雑記」(享保7年=1722 当時、寺の第8代住職だった覚幢の著)には開祖は空窓(くうそう)と記されているだけである。
 一方、寺の文化財から歴史をたどるとすれば最も大きな手掛かりになるのが本尊の木造薬師如来座像である。美術専門家の鑑定によるとこの座像は藤原時代の様式を色濃く残しているといわれる。
 奈良時代、安芸の国の文化の中心は現在の安芸郡府中町にあった国衙(こくが)周辺の地域であったが、太田川で船を利用した物資輸送が発達してきたのに伴い、水運の拠点となった現在の祇園町の佐東(さとう)市場付近が栄え、平安時代の後期には政治や文化の中心がこの方面に移ってきたことが考えられる。この地域を一眺できる新山の地には牛田荘の西大寺と関係する何らかの宗教的営みがあり、不動院の前身の寺がすでにこの頃創建されていたと学者は推測している。
 鎌倉後期の永仁年間には、この寺の山門に仁王像も設置された。この仁王像や本尊の薬師如来像の大きさや、地名の名残りなどから兄て、東北に五重塔があり、七堂伽藍が供わり、境内には12の子院を擁しており、寺城も東は新山全山から、西は現在よりはるかに西を流れていた太田川の川端まで及んでいたようである。
 南北朝時代に入り、足利尊氏(あしかがたかうじ)、直義(なおよし)兄弟が、戦乱で散った武士たちの霊を慰めるため、国ごとに安国寺を置き、利生塔(りしょうとう)を建てたが、安芸国ではこの寺が安国寺にあてられ、以後寺号を安国寺と称し、寺は繁栄してゆく。
 ところが、大永の年代(1521―1528)に戦火のため寺の堂や塔など全てが焼け落ちてしまう。「新山雑記」はその後の状況を「兵火ニ灰燼セシ後ハ幽ナル藁屋ニ本尊薬師如来ヲ安置シ、時ノ僧ヤウヤウ香烟ヲ立ル計ノ有様ナリシ」と記している。こうして廃寺に近い状態が、以後50年間続く。


金堂(国宝)


木造薬師如来座像(重文)


鐘楼(重文)