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寺を復興、政治手腕も
安国寺恵瓊の時代

 

 大永の戦火で壊滅した寺を復興したのが安国寺恵瓊(えけい)である。この章では安国寺の住職として荒廃した寺の復興をなしとげる一方、戦国時代の「政僧」として手腕を発揮した恵瓊の足跡をたどりながら、寺の変遷を見てゆきたい。
 恵瓊の生まれや、生い立ちについては、安芸国の守護で金山城主の武田信重の子であるとか、武田氏の分家の一つ伴氏の伴五郎の子であるなど諸説があるが、定かでない。
 天文22年(1553)に後に京都東福寺の住職となった竺雲恵心(じくうんえしん)が安国寺を訪れているが、この時恵心は恵瓊とめぐりあっている。従って恵瓊が安国寺に入った時期は、天文22年以前のある時期とみるのが正確な見方といえよう。この巡り合いで、恵瓊は恵心を生涯の師と仰ぐようになり、まもなく恵心の弟子となって東福寺に入る。
 その後、元亀3年(1572)恵瓊は正式に安国寺の住職になった。恵瓊、時に35才だった。
 やがて恵瓊は、当時中国地方一円に勢力圏を確保していた毛利輝元の対外交渉を一任され政僧としての手腕を発揮してゆく。豊臣秀吉が中国地方に進攻してきた際には、恵瓊は毛利方の使者となって秀吉との和平交渉に当たっている。この交渉を通じて秀吉は恵瓊の力量を認め、恵瓊と秀吉の繋がりが深まった。
 天正19年(1591)には、秀吉は安国寺の寺領として1万1500石を恵瓊に与えている。この寺領の内訳は、中国だけでなく、四国、九州にも及ぶ広大なものだ。


安国寺恵瓊像

 このような莫大な寺領は、当時の中央の大きな社寺のそれと比較しても破格の規模で、天下を制覇した豊臣政権の下での恵瓊の存在の大きさを示している。また、秀吉がこの寺領を与えた時の朱印状は今も不動院に残っており、全盛を極めた当時の様子を偲ぶことができる。
 恵瓊はこのように政治的に恵まれた環境の中で寺の大掛かりな復興事業を進め、金堂、楼門、鐘楼などを次々に整備していった。このうち金堂については大内義隆が周防山口の寺に建立されていたものを移して建て替えたと伝えられている。
 しかし、”黄金の日々”も長くは続かなかった。関が原の合戦で恵瓊は西軍にくみして敗れ、京都六条河原で首を斬られ、63歳の波乱の生涯を閉じた。隆々たる寺運を誇っていた寺も恵瓊の死によって次第に衰えてゆく。