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藩主らの祈念や祈祷の場に
福島正則から浅野家の時代

 

 "天下分け目"といわれた関が原の戦いで敗れた毛利輝元は広島を追われる。そして、このあとは福島正則が徳川家康から30万石近い加増を得て、芸備両国49万8千石に封ぜられた。
 広島に入国した正則は、若い頃からの祈祷師だった僧宥珍(ゆうちん)を迎えて安国寺の住職とした。このとき寺は、禅宗から真言宗に改められた。また宥珍は不動明王を寺の本坊に移して本尊としたため、寺は不動院と呼ばれるようになった。
 正則は、不動院に対して当初7人扶持(ぶち)と米30石を与えたが、元和2年(1616)からは門前の高91石余の寺領を与え、この他毎年かなりの祈祷料を渡していたという。
しかし、変転の激しかった時代、福島正則の治世は僅か20年足らずしか続かなかった。広島城の石垣を幕府に無断で修築したとして、将軍から改易を申し渡され、信濃国川中島に移される。このあと広島は浅野家42万石の城下となる。
 浅野氏の時代の不動院は、歴代の藩主の保護を受け、寺領などの助成も得て、概ね安定した時期が続く。とりわけ、第10代の住職宣命(せんめい)は時の藩主吉長の信任が厚く、吉長のための重要な祈祷を数十回にわたって行っている。このように、不動院は浅野家との深い繋がりを保って、藩主が祈念や祈祷をする信仰の場となり、また浅野家の菩提寺のような役割も果たしていた。


福島正則像


福島正則の墓