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清盛の庇護で飛躍的に隆盛
藤原文化の粋集めた「平家納経」

 

 厳島神社は、時の為政者から庇護を受けてきたが、平家一門とりわけ平清盛との関わり抜きでは宮島の歴史は語ることができない。
 清盛は、久安2年(1146)まだ29歳の時に安芸の国守に任ぜられている。「平家物語」によると、その在任中に父の代理として高野山の大塔修造の事業を成し遂げたが、その後高野山参詣の際、夢の中に現れた老僧のすすめに従って、厳島神社を造営したといわれている。この伝承がそのまま史実かどうかは別としても、当時の神主佐伯景弘が清盛の意向を迎えて今日見られるような社殿が築かれた。当時の貴族らの住宅であった寝殿造りの様式に則り、海を敷地にして社殿や回廊を配置するという、まったく新しいユニークな発想であった。

平清盛像
平清盛像
(重文のレプリカ・宮島歴史民俗資料館蔵)

平家納経
平家納経の一部(国宝)

平家納経厳王品
平家納経厳王品見返し部分

 この社殿の造営は、清盛が太政大臣となった翌年の仁安3年(1168)までには完成したことが知られるが、おそらく長い歳月と清盛の権勢による莫大な財力が、投入されたものであろう。(この社殿は、13世紀初頭再度にわたり焼失したので、直ちに再建されたが、創建期の様式がそのまま踏襲された。)
 その優雅な姿は、平安の栄華のあとを偲ばせるに充分なものがある。本殿など多くの建造物が、国宝や国の重要文化財に指定されている。また厳島神社には、藤原末期の文化の粋を集めた宝物が多く残っており、その宝物からも平家一族の信仰の篤さがうかがえる。
 中でも最高の芸術品といわれているのが、清盛自ら筆をとって願文を記した「平家納経」である。法華経を中心に般若心経その他、それに清盛自筆の願文を添えて全部で33巻から成っている。願文の中で清盛は、厳島信仰の経緯を表すとともに、今生・後生にわたる加護を奉謝するため、一門こぞって経巻を書写し、宝殿に安置するという主旨を述べている。各巻は一門の人たちがそれぞれ信仰心と贅美を競ったものと思われ、表装・料紙・筆跡・扉絵など、藤原時代の絵画工芸の粋を凝らしたものである。
 この他にも安徳天皇の玩具と伝えられる小型の古神宝類や、古楽器、能楽面、小桜威(おどし)の鎧、螺鈿(らでん)飾太刀などがあり目を奪うばかりである。

 ところで清盛は、自分の栄達は厳島の神の加護によるものだと信じて、年を追って信仰を篤くし、厳島参詣もおそらく数十回に及んだ。また後白河法皇、高倉上皇や中宮建礼門院なども参詣されており、「梁塵秘抄口伝抄」には、後白河法皇が社頭に臨まれたときの様子を自ら書き記している。
 その当時、京都から宮島までは片道だけで一週間もかかる遥かな旅であり、上皇ら高貴な人たちがこうした辺境に出かけることは全く異例であった。しかもこれらの場合、多くの貴族や高僧、楽人、舞人が随行し、現地では万燈会(まんとうえ)・千僧供養などの大法会が華麗に綴り広げられた。今も宮島に伝えられる雅楽の古曲もこうした経路で宮島の地に伝承されたもので、壇ノ浦に滅んだ平家が己れの運命を予知したかのように都の文化の粋をここに運んだことがうかがわれる。
 文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで、平家は源氏に敗れ、権勢を誇り栄華を極めた平家の天下も終わる。平滑盛ら平家一門の手厚い庇護で隆盛した厳島神社ではあったが、鎌倉幕府も社殿の再建など手厚い保護政策をとった。室町時代になっても為政者の信仰と庇護は続き、大がかりな参拝や、所領の寄進が行われている。
 このころから島内居住者も増加して門前町として発達したが、また瀬戸内航路の寄港地として商業の発達も著しかった。

本殿

舞楽


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