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聖域血で染めた厳島合戦
奇襲と情報戦争で勝負

 


毛利元就画像(毛利博物館蔵)

要害山頂

 時の為政者や庶氏の信仰の中で、平和な歴史を刻んできた宮島であったが、戦国時代には聖域を血で染めた “厳島合戦” が起きている。
 ことの起こりは、天文20年(1551)周防(山口県)の大内家に内紛が起こり、かねてから主君大内義隆の統治の進め方に反発していた家老の陶晴賢(すえはるかた)は義隆を自害させて、その実権を握った。
 この時、安芸国吉田の郡山城にいた毛利元就(もとなり)は、最初晴賢に与して、むしろ芸備の守りを固めたが、弘治元年(1555)反転して義降の恨みをはらすためとして挙兵して晴賢軍と対決するに至った。兵士の数で圧倒的に劣っていた元就軍は、平地での通常の戦いでは勝ち目がないと見て、宮島の要害山に宮尾城を築き、宮島に戦場を求める作戦に出た。“神の島”を戦場とすることに元就は苦慮したが、勝つにはこの策しかないとみての決断だった。
 晴賢は2万の兵を率いて宮尾城を攻めるが、守りが固く、攻略に手間取る。この間に元就は3500の兵とともに、折りからの暴風雨にまぎれて厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、満を持していた宮尾城内の軍勢も一挙に逆襲に転じたため、晴賢軍は大混乱に陥って敗走、晴賢は島の南東岸まで逃れ自刃した。

 この戦いで優れた戦略家であった元就は、奇襲戦法に加えて、反間(はんかん=スパイ)を敵中に放った。宮尾の城は軟弱だとか、晴賢勢が宮島に上陸すれば広島湾頭を制することになるから、元就のもっとも恐れているところであるなどの情報を流し、晴賢軍を宮島におびき寄せることに成功、元就の思い通りの戦局展開となった。また戦いの前日まで旗色を明らかにしなかった村上水軍が、直前になって元就側につき、この地域の制海権を確保したことが、勝利を決定的にした。
 合戦が終わったあと、毛利元就は厳島の聖域を血で汚したことを深く反省し、両軍の戦死者や負傷者を対岸に移し、流血で汚れた土砂は全て削り取って海中に捨て、血で汚れた回廊なども新しいものに取り替えた。
 また大鳥居の再建や、社殿の新造に者手している。巻頭の台風で倒壊した能舞台も元就が寄進したものである。毛利氏の厳島信仰は、元就の代にとどまらず、その子隆元、孫の輝元にも引き継がれた。


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