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金も人も不足、反対運動も
難航極めた築港計画

 宇品港は、時の県令(県知事)千田貞暁(せんださだあき)によって築造された。千田は、明治13年、前任地の大分県から、海路広島に赴任したが、宇品島で蒸汽船を和船に乗り換えたものの、三角州の浅瀬が続く広島へは、ここで長く潮待ちしなければならなかった。また着任早々の巡視で、せっかく生産された物資が、至るところで渋滞し経済活動が停滞していることに驚いた。そして、港の整備と道路の改修が緊急の課題だと考え、宇品築港を決断した。
 宇品築港計画は、明治14年5月末、内務省内務卿松方正義(まつかたまさよし)宛に申請され、その結果派遣された内務省のお傭工師(やといこうし)ムルデルを中心に計画がまとめられた。計画の概要は「第一の工事は京橋川左岸の皆実新開(みなみしんかい)と宇品島(現在の向宇品)の間に、1200間余りの堤防を築き、宇品、金輪両島の間の海峡を大きな船の停泊場とする、第2の工事は、この停泊場と広島の市街を結ぶ車道をつくる、第3の工事は、皆実新開と宇品島の間に230町歩余りの新開墾地(干拓地)をつくる」というもの。この築港など3つの工事の総工費は当初の計算では、18万円余という巨費が必要とされた。小学校教諭の初任給が10円前後の時代である。
 ところが、それだけの金はとても捻出できない。そこで経費節減のための苦肉の策として、愛知県人服部長七(はっとりちょうひち)の発明した人造石工法を採用した。この工法は、山土に石灰を混入して固めて造った人造石を使うという今のセメントのようなものだった。これによって工費は、11万円に切り詰めることが可能となったが、千田は工事に必要な土石は県が現物を直接現場に運ぶという条件で、総工費は8万7000円まで切り詰め、明治17年2月、服部と工事契約を調印した。
 千田は、広島市内の有志百数十名を召集して、築港計画の起工について満場一致の賛同を得て、計画はスタートを切った。ところが、ここに来て大きな反対運動が起こる。
 反対の中心は、計画区域の周辺の住民たちで、広大な漁場や海苔やカキの養殖場を奪われて、生計を失うことや、皆実新開沿いの海岸から土砂の採取が困難となることなどをあげ、激しい反対運動を展開した。

千田貞暁銅像千田貞暁銅像

千田廟
宇品町千田公園の一角にある千田廟

宇品御幸通り
宇品御幸通りは明治18年、明治天皇が広島に幸行し、宇品港よりご乗艦の際に通過されたのを記念して名付けられた。(大正末期の写真・広島市公文書館提供)
 寺の梵鐘(ぼんしょう)を合図に集まった住民たちは、激昂して地区の築港賛成派の商店からの酒や醤油などの不買を決議して気勢を挙げたという。また住民たちは、反対陳情のため千田県令の家に押し掛けた際には、ムシロ旗を立て竹槍を携え不穏な情勢だったと当時の資料に記されている。
 しかし千田らの説得工作で、工事資材の運搬などに反対派の住民を優先して雇用し、この作業費は、養殖や漁場の損失を十分償うものであることが住民にも分かってきたため、反対運動は半年後には収まった。
 明治17年9月、やっと起工式にこぎつけたが、工事は困難を極めた。潮止め工事の満潮による崩壊や、労賃や資材費の値上がりに伴なう資金不足で工事は悩まされた。千田は再三再四、国庫補助の申請を図ったが、とうとう工事の遅延と計画が疎漏だったという理由で懲戒処分を受ける有り様だった。
 こうした曲折を経て、明治22年11月、着工時に見積もっていた予算の3倍の30万円を費やして宇品築港は完成、千田の悲願は実を結んだ。しかし千田は、この竣工を見ることなく新潟県知事に転出した。
 完成した宇品港は、当初は出入りする船舶も少なく、〃無用の長物視〃された時期もあり、これを一大失策とする声さえあった。千田の先見性や政治手腕が評価されたのは、かなり後のことである。
 この宇品築港によって陸地となった地区、宇品町千田公園の一角に、千田貞暁の銅像がある。彼の業績を讃えて建てられ、除幕されたのは大正4年、彼の没後7年目のことである。フロックコートに身をただし、宇品の港を望んでいる。千田は自らの決断で実現した宇品港の激動の歳月をどのような思いで見つめているのだろうか。