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活況呈した「軍港」の半世紀
悲劇や傷痕も秘めて
宇品御幸二丁目にある広島市郷土記念館は、1911年(明治44年)に建てられた旧陸軍糧秣支廠の建物の一部を保存して利用している。広島市の重要有形文化財。

 宇品築港計画について千田は、「宇品港ハ一地方ノ利便ニ止マラズ、広ク陸海両軍ノ兵事ニ一大便益ヲ与フベキ事業」と予言していた。この予言はその後、日清戦争から太平洋戦争に至る半世紀にわたる戦争の歴史を通じて裏付けられる結果となる。相次いだ戦争の度ごとに軍隊や軍需物資の輸送基地として、宇品港の名を全国に広めた。
 城下町としての広島は、すでに明治6年、全国の6ブロックの一つとして陸軍第五軍管広島鎮台が置かれ、中四国の中心となる軍都となっている。
 日清戦争は明治27年に起き、たまたま山陽鉄道が広島まで開通したことから、広島に大本営が設置される。当時は情報網が未発達で、東京にいて朝鮮半島や大陸の軍を迅速に動かすことが困難だったことから、近代港湾と鉄道が整備されたいちばん西の都市広島が、大本営の場所に選ばれて、明治天皇は親しく広島で指揮をとられたのである。
 開戦直後、広島の師団にも動員令が出され、兵士たちが宇品港から朝鮮半島に向けて出発、「軍港宇品」の歴史がスタートした。この戦争には、松山の俳人正岡子規も従軍記者として、宇品港から戦場に赴いたが、千田公園には子規の句碑が建てられている。
「行かばわれ、筆の花散るところまで」
という句で、死を覚悟して戦場に出た子規の心境が17文字に込められている。
 続いて明治37年には日露戦争が始まり、広島と宇品は再び国内の前線基地となる。宇品町は活況を呈した。当時の資料によると、日露戦争開始の36年12月には戸数760余戸、人口3200余名と推定されたが、37年12月には、3倍近い2300戸、約9000人にのぼり、このほか軍事輸送に従事する作業員を含めると1万2000人以上になったという。100軒に余る飲食店、30軒に近い料理屋で昼夜にぎわい続けた。
 この間、兵站輸込基地の施設として、陸軍運輸部本部(昭和17年陸軍船舶司令部を並置し、機能の拡充・強化をはかる)、同金輪島工場、陸軍兵器支廠、陸軍被服支廠、陸軍糧秣支廠等が整備された。
 明治も後半に入り、宇品港には一般船舶の出入りも増えてきた。明治30年、台湾航路、38年、大連航路、大正3年には青島(チンタオ)航路など、大陸近海の定期船も宇品港に寄港するようになる。昭和7年には宇品港は広島港と改称され、港の区城も拡大された。宇品には大小の船が出入りして、一般港としても賑わいを見せる。
 宇品海岸三丁目にある「港」の歌碑は、そうした当時の賑わいを偲ばせてくれる。
 「空もみなとも夜ははれて 月にかずます ふねのかげ――」という旗野十一郎作詞、吉田信太作曲のこの歌は、明治29年、新選国民唱歌に紹介され、戦後も小学校唱歌として親しまれてきた。
 しかし宇品の港は、戦時色が濃くなるにつれて、軍事的利用が中心となり、一般的利用は制約されてゆく。第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と暗い谷間が続く中で、港は兵士と軍需物資を次々と送り出していった。日の丸の小旗に送られ、兵士たちは突堤や雁木から団平船に乗リ込み、沖合いの輸送船に送り込まれ戦場に何かった。生還して再びこの地を踏むことも叶わなかった若者も数多かった。
 やがて広島は、昭和20年8月6日の原爆投下、8月15日の終戦の日を迎える。宇品の港は、数知れない戦争の悲劇と傷痕を残しながら、軍港としての使命を終え、新しい時代に入っていった。


陸軍船舶司令所跡の碑

正岡子規


子規の句碑


小学校唱歌「港」の歌碑