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松永鬼子坊
松永鬼子坊の碑 松永鬼子坊の句

 明治13年9月、旧温泉郡雄郡村(現松山市土居田町)に生まれた。本名、詮季(よしすえ)。旧姓・島川。明治38年愛媛師範卒業後、北条市(現松山市)磯河内の松永家に入った。
 師範時代に俳句をはじめる。西岡十四王、村上壺天子らは師範の後輩にあたる。大正5年、「渋柿」創刊とともに同人となり、松根東洋城に師事する。
 教育者としては、そのまじめな人柄が買われ、27歳で小学校長となり粟井、河野、松山市の湯築小などを歴任した。昭和7年から相次いで肉親の不幸が鬼子坊を襲った。長男の死、養父の死、二男の死、そして終戦直後は夫人と肉親を失った。
 仏典に没頭し、仏教と俳諧に逆境の光明を求めた。「法衣もまとわず、鉄鉢も持たず、ただ求むるは道のみ」と俳諧行脚を続けた。その一方で、俳諧の第二観照を主張、これを終世つらぬいた。
 昭和31年、渋柿図書刊行会から句集「形影」を刊行。昭和46年2月5日没、90歳。

 蝸牛(かたつむり)や照りつづけたる末の雨
 梟(ふくろう)のふはりと来たり樅の月
 朱硯にさす一滴や雲の峰

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