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三由淡紅
三由淡紅の碑 三由淡紅の句

 現在の松山市北条辻町で明治11年に生まれた。5歳で父に死別、15歳で松山市西垣生の絣会社に店員として入る。同社の頭取が村上霽月であった。
 やがて淡紅は霽月から俳句の手ほどきを受けるようになる。明治37年ごろからは、絣仲買いを生業とし、句作と鹿島の開発に力をそそいだ。北条・鹿島の難所に私財を投げうって橋をかけ鹿島周遊道の足がかりを作ったのが淡紅である。
 そして、この橋に百石橋と名付けたのが虚子である。同島に碧梧桐や為山、虚子、東洋城らの俳人を案内したのも淡紅。鹿島に愛着を抱くあまり、俳人仲間から「鹿島狂」「鹿島探題」などと呼ばれたほど。しかし、碧梧桐は「信ずる所に突進するは、明治の今日、初めて見るべき俳諧奇人伝中の異彩」と称賛している。
 毎月の子規会に、ふろしき包みを首に巻き、ぞうりに竹のツエで正宗寺を訪れていた淡紅の姿は今も語り草になっている。昭和34年の子規忌に「急病で糸瓜も切れぬ力かな」と詠んだのが辞世となった。82歳。

 この碑は鹿島周遊道西側に建っている。
 古り残る納経堂やつばくらめ

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