前のページ 次のページ

佐伯巨星塔
佐伯巨星塔の碑 佐伯巨星塔の句

 本名は惟揚(これあき)。明治31年、旧温泉郡三内村(現在の東温市河之内)の川之内社家に生まれる。晩年は恩給生活者として家職を継がせたいという父の方針から、伊予教員養成所を経て愛媛師範学校へ。大正9年同校本科一部卒業。昭和28年三内中学校長で退職まで、35年間教育畑に勤める。家職の惣河内神社宮司(12代)就任は、昭和21年。同59年没。
 父の感化で早くから俳句好みとなった巨星塔の句風は、愛媛師範時代まで混沌としたものであった。大正8年「渋柿」と出逢い、一目惚れののちは、これを生涯俳句修行の拠りどころと定める。昭和8年から2年弱、転任で松山に住む間には、一題百句・十題千句の荒行にも挑む。やがて得た俳句観は「一句は一悟なり。俳諧は、俳諧することが第一義、作品は第二義」「俳句は情け」も、よく口にしたという。
 生家の一角に通算一年間、師・東洋城を迎えて共に起居した。“一畳庵”の明け暮れは、巨星塔にとって生涯の思い出となる。句集「黛石(たいせき)」を残す。

 石ころは石ころである麗かな

Copyright© UNIC.LTD. 1977-2012 All Right Reserved.