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森田雷死久
森田雷死久の碑 森田雷死久の句

 本名は愛五郎。僧名・貫了。明治5年1月26日、伊予郡高柳村(現在の松前町)に生まれる。同15年、温泉郡中島町大浦(現松山市中島)の真言宗・長隆寺に入り、3年ののち谷上山宝珠寺へ。同22年には、京都仏教大学林へ入学。やがて少僧都となって帰山。同28年、末寺にあたる旧伊予郡南山崎村(現伊予市)真成寺住職となる。同36年、温泉郡潮見村平田(現松山市)常福寺住職となる。
 なにより実践を尊ぶ真言行者の一人として、雷死久は地域果樹栽培の必要性を強く説き、自ら住職を務める常福寺の寺領2反歩あまりをそっくり梨園と変え、明治42年には温泉郡小野村(現松山市)にも「赤々園」という梨園を開いている。そして大正2年「伊予果物同業組合」を結成して初代専務となる。
 雷死久の俳句はじめは、明治28年。同34年には南海新聞俳壇選者となり、37年には松山松風会復興大会を中心となって開催するなど、地方俳壇活性化に努めている。晩年は、下浮穴郡荏原村(現松山市)大蓮寺での俳夏行(はいげぎょう)参加以来、その主催者・河東碧梧桐に共鳴、新傾向に走る。大正3年没。

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