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宇都宮丹靖
宇都宮丹靖の碑 宇都宮丹靖の句

 奥平鶯居、大原其戎の没後、松山俳壇の中心的人物になったのが黒田青菱や宇都宮丹靖である。丹靖は文政5年(1822)、旧喜多郡滝川村(現大洲市長浜)生まれ。出家し、20歳のとき上京、三宝院にはいる。帰郷後は滝川村竜泉寺の第31世を継ぎ、安政4年(1857)、36歳で還俗して松山に転住した。
 俳諧は内海淡節の門下生である。ほかに丹青、丹騎鶴、夢大、亀石などとも号した。明治26年10月、指呼が東京から自作の10句を丹靖のもとに送り、添削を求めて以来親密に文通するようになった。
 丹靖が正岡子規に初めてあったのは74歳、子規が療養のため愚蛇仏庵に住み込んだ明治28年のこと。偶然、丹靖の住居は愚蛇仏庵の北隣であった。其戎同様に芭蕉を慕い、明治15年、石手寺境内の芭蕉の花入れ塚横にこの碑を建てた。「いしぶみ」とはもとより花入れ塚のことであろう。
 松山市久保田の履脱天満宮の「梅が香の満ちわたりけり天が下亀石」という句碑も丹靖のもの。明治42年8月没。88歳。

 古城の櫓に上る月見哉
 一萬の燈籠涼し浪の上

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