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内海淡節
内海淡節の碑 内海淡節の句

 松山藩士、本名愛之丞、相応軒とも号した。30歳のころ、京に上り、当時名声の高かった桜井梅室の門に入り、剃髪して俳諧の道に入った。彼はその師に愛され、養継子となり、桜井の姓を称した。二条家に仕え、二条殿より宗匠に上げられ、昇進して花の本脇宗匠といわれ、名声大いに高まった。
 その後、梅室に実子ができたので、その養育につとめ桜井家を子の実子に譲り、もとの内海の姓に帰った。
 明治5年、松山へ帰り、二番町、出渕町、北京町などに移り住んで、黒田青菱、宇都宮丹靖ら、地方の俳人を指導し、俳句の隆盛に力を尽くした。2歳年下で三津浜の大原其戎とは同じ梅室門で親交があり、其戎のあら株塚(芭蕉塚)建碑記念俳諧集「あら株集」の序文を書いている。
 晩年、松山にいることわずか3年ばかりであり、その名はあまり広くは知られなかったが、無駄のない、格調の高い句風の旧派の俳人であった。石手川堤にあるこの句碑は彼の墓碑でもある。文化7年(1810)~明治7年。俳句の里めぐり城下コース第15番。

 雪かげや扇の箔の照くもり

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