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下村為山
下村為山の碑 下村為山の句 下村為山の肖像

 明治44年4月制定された松山市章をデザインしたのがこの人。洋画家で俳人、俳画家として足跡を残した。
 慶応元年(1865)、現在の松山市三番町6丁目付近に生まれる。8歳で上京、26歳(明治23年)のとき内国勧業博覧会に洋画を出品、この世界で先に名を知られる。後、従兄弟の内藤鳴雪を介して子規を知り、俳句に熱中することとなる。洋画を通じて子規の写生論に影響を与えたが、子規没後は東京を離れ、地方回りの肖像画家となる。
 これと並行して俳画の研究に没頭、俳句的イメージに溢れた水墨画を創始する。こうして大正4年、棕櫚、柿、鶏頭、雀など新鮮な画題を引っさげて堂々と東京に復帰。ときに51歳であった。俳画家と呼ばれることを極端に嫌った人だが、「俳画もまた日本芸術の光である」と俳画への転進の真意を語っている。
 日本俳句最初の句集「新俳句」に俳画を描き「ホトトギス」にも挿絵を掲載した。俳号は冬邨、百歩、牛伴とも称した。昭和24年没。

 家近く古江の夕べ小鴨なく

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