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正岡子規
正岡子規の碑 正岡子規の句 正岡子規の肖像

 本名・常規(つねのり)、通称・升(のぼる)。子規・竹の里人・獺祭(だっさい)書屋主人など号は百種に及ぶ。慶応3年(1867)現在の松山市花園町にあった松山藩御馬廻加番の家に生まれる。明治17年東京大学予備門入学。同22年喀血を機に子規を号した。
 明治25年日本新聞に入る。同27年「小日本」編集主任。翌年、日清戦争従軍記者として中国に赴き、帰途喀血。当時松山中学教師だった夏目漱石の下宿で療養ののち帰郷。同29年以降の7年間は脊椎カリエスで病臥。同35年9月19日没。
 子規は十代の初作から死の前日まで、18年間に3万ちかい俳句を残し、俳句革新をなし、多くの後進を育てた。古俳句の分類から始まり、武蔵野の旅で写実句法を体得、「俳諧大要」という絶好の入門書を編み、和歌・新体詩・随筆の分野でも言語表現の可能性を徹底して探り、死の前日まで筆を離さなかったというこの気力と情熱と好奇心は圧巻である。
 「若鮎―」の句は、明治25年初夏、松山名所12か月の3月の部として作ったもの。出合橋北側にあるこの句碑は俳句の里めぐり散策コース第7番。

 初汐や松に波こす四十島

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