前のページ 次のページ

村上壺天子
村上壺天子の碑 村上壺天子の句 村上壺天子の肖像

 本名万寿男。明治20年、旧越智郡大山村余所国(現今治市宮窪町)に生まれる。同40年、愛媛師範学校卒。昭和13年松山市余戸小学校校長を最後に教育界を去る。
 この人と俳句の縁は、1級年上の西岡四十王たちの俳句グループに参加した、愛媛師範時代から。村上霽月らから指導を受け、のちに松根東洋城に師事、「渋柿」同人となる。昭和17年からは、同誌新珠集の選者を努めている。「徒らに新しきを求め、見さかいもなく古きを捨てんとするが如きは、俳句低下の一因」と断じるこの人の好物は、大根漬。「その樽漬大根は刺身と同じに賞味出来る佳い味、郷愁の味を持っていた。その味は、漬物をする前の精根の味である。大根の吟味、干し加減の細心、塩・糖の加減、重し石の配慮など、昔の漬け手が精根をつくした味である」と、若いころ味わった田舎のそれを懐かしんでいる。淡泊を食い分ける繊細な舌は、そのまま句風の流水悠々ぶりに表れている。
 昭和27年、この句碑の序幕にあたって彼は、「即身を犠牲にして子を愛する母親の人間像を風邪の子を借りて詠じた―」と述べている。昭和59年没

Copyright© UNIC.LTD. 1977-2012 All Right Reserved.