前のページ 次のページ

柳原極堂
柳原極堂の碑 柳原極堂の句

 俳誌「ホトトギス」は、61年12月で第80号を数えるが、創刊は明治30年1月15日、その発行兼編集人が柳原極堂である。ちなみに創刊号の発行所は松山市立花町の極堂の自宅、300部が印刷され、一部6銭だった。
 極堂は慶応3年、松山北京町生まれ、本名正之。子規とは中学時代からの「文友」。明治16年上京、共立学校に学び、22年帰郷、海南新聞社に入り、のち主筆、伊予日々新聞社長、その間「ほとゝぎす」を創刊、20号まで発行をつづけ、そのあとを東京の虚子が継いだ。
 昭和7年上京、「鶏頭」を創刊、同誌に「子規と其郷里松山」や子規の「散策集」などを発表、子規研究の貴重な資料を提供した。昭和18年、極堂の提唱で松山子規会が創立、戦後は正宗寺境内の子規堂に住し、24年6月松山市豊坂町に子規庵を建てて移り住み、32年10月7日ここで永眠した。91歳。
 「わが生は糸瓜の蔓のゆくところ」、その余生を子規研究と顕彰に捧げた。この句碑は城山の麓、美術館分館正門を入って、登ってゆく道のかえにある。俳句の里めぐり城下コース第4番の3。

Copyright© UNIC.LTD. 1977-2012 All Right Reserved.